第1部 日本の近代化とフランス

第2章 産業

1. 大規模官営工場の建設

19世紀後半以降、欧米列強のアジア進出の中で、日本は独立を確保する道を資本主義の確立に求めた。明治政府が国家主導の「上から」の資本主義化を図るために進めた殖産興業政策は、旧幕府・諸藩の洋式工場や鉱山を接収し、官営事業とすることから着手された。明治3(1870)年に発足した工部省は、初期の官営事業を統括し、多くの技術者を「御雇外国人」として招へいしてその指導に当たらせた。特に幕末にフランスの支援で創設された横須賀造船所は、当時国内最大の総合工場として、機械製作や技術者養成の面で他産業の発達にも貢献した。これらの官営工場においては、日本人職工・工女らによる技術の習得が図られ、彼らの流動による民間への技術移転は、官営事業自体の払下げと並んで日本における産業資本主義発展の基礎をなした。

横須賀造船所

開国後、海軍を創設した幕府は、国産軍艦の建造に乗り出した。ロッシュは、勘定奉行・小栗忠順(1827-1868)、目付・栗本鋤雲(1822-1897)を通じて幕府に接触し、慶応元(1865)年製鉄所建設の約定を交わした。建設地としては、フランスのツーロン軍港に似た地形の横須賀が選ばれ、上海駐在のフランス海軍技師レオンス・ベルニ(1837-1908)が首長として招請された。明治維新後、造船所の建設は新政府に継承され、製鉄・造船はじめ殖産興業を支える総合工場として機能した。造船所は、横須賀海軍工廠として第二次世界大戦敗戦まで存続し、戦後は在日米軍工廠として現在に至っている。(なお、横須賀造船所の名称は、製鉄所、造船所、海軍船廠、海軍工廠等と変遷したが、時期を特定すべき場合を除き、総称として「造船所」を用いることとする。)

『横須賀海軍船廠史第1巻』表紙

横須賀海軍工廠編『横須賀海軍船廠史』横須賀海軍工廠, 大正4(1915)【224-207『横須賀海軍船廠史』のデジタル化資料

大正4(1915)年、横須賀造船所の創立50周年を記念して、横須賀海軍工廠から刊行された、元治元(1864)年から明治31(1898)年までの横須賀造船所の正史。明治3(1870)年以前の記述は、鈴木重遠編『横須賀船廠史』(1887)による。また、本書以降の時代を扱う資料には、横須賀海軍工廠編『横須賀海軍工廠史』(1935)がある。
横須賀製鉄所の建設にあたっては、まず横浜に製作所が設置され、国内既存の工作機器類を集めて日本人職工に技術を習得させるとともに、製鉄所建設に必要な機械類を製作することとされた。フランス人との交渉に当たった訳官の中には、外交官として条約改正に当たった塩田三郎(1843-1889)、ギュスターブ・ボアソナード(1825-1910)の招請に関わり大審院長も務めた名村泰蔵(1840-1907)、フランス語教育の基礎を築いた今村有隣(1845-1924)など、各界で活躍する人物がいた。

『平面幾何学』標題紙

横須賀造船所編『平面幾何学』横須賀造船所, 明11(1878)【24-137『平面幾何学』のデジタル化資料

ベルニが幕府に示した製鉄所設立原案には、「日本政府ハ他年内國人ヲシテ佛人ニ代リテ造船事業ニ當ラシムル爲メ造船所内ニ学校ヲ興シ以テ技師及技手タルベキ人材ヲ養成スベシ」(『横須賀海軍船廠史』)とあり、当初から技術伝習制度を設けることが計画されていた。伝習生制度は明治維新で一時中断されるが、明治3(1870)年に「黌舎」と称する技術学校が設置され、フランス語で造船学と機械学が講じられた。フランス語の習得が重視され、仏文学の翻訳を手がけた川島忠之助(1853-1938)のように、ここで身に着けた語学力を生かして活躍する者を輩出した。同9(1876)年頃からベルニら御雇フランス人が解雇されていくのに伴い、日本語での教育に改められたようである。
本書は、平面幾何学の教科書である。黌舎教育において、数学は必修科目とされていた。

富岡製糸場

開国後の日本の主要な輸出品は、生糸であった。当時、ヨーロッパにおいて蚕の伝染病が蔓延し、フランスをはじめとする主要養蚕国が生産量を激減させる中、開港場の横浜から国産生糸が大量に輸出されたのである。しかし、過大な需要は粗製濫造を招き、悪質な業者も横行した。明治政府は、洋式器械製糸の導入によって主要輸出品である生糸の品質向上を図るため、明治5(1872)年、群馬県富岡に官営製糸場を建設した。富岡製糸場の運営にあたっては、ヨーロッパ最大の絹織物工業地帯リヨンを擁するフランスから技術を導入することとし、首長ポール・ブリューナ(1840-1908)以下、フランス人技術者が雇い入れられた。富岡製糸場は、女工の教育等技術導入の面では大きな成果を上げたが、官営時代の経営は思わしくなく、明治26(1893)年三井家に払い下げられた。その後も、経営主体は変遷したが、片倉工業のもとで昭和62(1987)年まで操業を続けた。

富岡製糸場の錦絵

一曜斎国輝 [画]『上州富岡製糸場之図』大黒屋平吉, [明治5 (1872)]【寄別7-4-2-5『上州富岡製糸場之図』のデジタル化資料

『繰糸場取建日誌』表紙

玉乃世履・杉浦譲『繰糸場取建日誌』明治3(1870)【杉浦譲関係文書146】『繰糸場取建日誌』のデジタル化資料

明治3(1870)年6月、政府はエッシェ・リリアンタール社の生糸検査人として横浜に駐在していたブリューナを雇い入れ、製糸場の立地選定に当たらせた。政府側の責任者は、民部省の大木喬任(1832-1899)、玉乃世履(1825-1886)、杉浦譲(1835-1877)、大蔵省の渋沢栄一らであった。
本文書は、製糸場建設やフランス人雇い入れをめぐり、フランス公使館書記アルベール・デュ=ブスケ(1837-1882)やブリューナと折衝した玉乃と杉浦による、明治3(1870)年10月17日から翌閏10月7日までの日誌である。また、文中には、渋沢の義兄(従兄)で富岡製糸場の初代所長を務めることとなる尾高惇忠(1830-1901)の名も見える。

『客中雑記』冒頭ページ

杉浦譲『客中雑記』明治3(1870)【杉浦譲関係文書145】『客中雑記』のデジタル化資料

明治3(1870)年閏10月13日から11月5日までの杉浦による覚書。内容は、主にブリューナに同道しての富岡の現地調査である。製糸場建設にあたり、ブリューナらが地勢や風向、水利等を詳細に調査したことがわかる。杉浦は、幕末に2度にわたり渡仏するなど外交で活躍し、維新後は民部省で郵便制度の確立に努めた。
なお、富岡製糸場の施設は、横須賀造船所の御雇フランス人製図工エドモン・バスティアン(1839-1888)に依頼して設計され、瓦葺木骨レンガ造建造物群は、平成26(2014)年6月、ユネスコ世界文化遺産に登録された。

煮繭器付き製糸器械

『製造機械品目』東京赤羽工作分局, 明14(1881)【特55-103『製造機械品目』のデジタル化資料

赤羽工作分局は、佐賀藩が幕府に献納した洋式製鉄機械を引き継いで、明治4(1871)年東京三田赤羽に創設された製鉄寮を前身とし、同10(1877)年以降工部省工作局の分局となった。同16(1883)年海軍省に移管されるまで、機械工業部門の中核として官民の需要を賄い、工部省の殖産興業政策を支えた。本書は、同14(1881)年における同分局の製品カタログとみられ、和英併記の説明が付されている。横置高圧蒸気機械(蒸気エンジン)(7コマ目)や製糸器械(54コマ目)は、富岡製糸場で使用された輸入機械を元に改良されたものである。煮繭器付きのフランス式製糸器械は、当時、国内では富岡のみで採用されていた。

和田英の肖像と原稿

和田英子著・信濃教育会編『富岡後記』古今書院, 昭和6(1931)【特210-926『富岡後記』のデジタル化資料

富岡製糸場は、洋式技術導入のための模範工場として設立され、全国から募集された女工たちの技術伝習が目指された。本書の著者和田英[子](1857-1929)は、信濃国(長野県)松代の士族の娘に生まれ、明治6(1873)年4月に富岡製糸場に入場、翌年7月まで一等工女として勤めた。帰郷後は、民営の西条村製糸場(後に六工社)設立に際し、女工の指導に当たり、同11(1878)年には長野県営製糸場製糸教授に就任している。同13(1880)年に結婚に伴い製糸業を離れるが、同40(1907)年以降、当時を回想した一連の文章を残している。これらは、昭和6(1931)年に信濃教育会の編集で『富岡日記』及び『富岡後記』と題して刊行され、明治初年の女工の実態を知る貴重な資料となっている。『後記』においては、六工社開業の前後が回想されており、富岡で学んだ技術が女工たちの手によって各地に伝播した様子がうかがえる。

生野鉱山

兵庫県朝来市にある生野鉱山(銀山)は、銀、銅、鉛、亜鉛、錫などを産した。鉱脈発見の時期については諸説あるが、戦国時代には本格的に採鉱されていたという。江戸時代には、佐渡金山とともに幕府の財政を支える重要な鉱山であったが、幕末には産出量が著しく減少した。明治政府は、官営鉱山として新技術導入による経営改善を図り、薩摩藩が領内の鉱業振興のため雇用していたフランス人鉱山技師フランソワ・コワニエ(1835-1902)を招請した。蒸気機関によるエレベータや輸送用の馬車道を整備するなどして、産出量は次第に増加した。その後、皇室財産(御料)を経て、明治29(1896)年に三菱合資会社に払い下げられ、昭和48(1973)年の閉山まで存続した。

『日本鉱物資源に関する覚書』表紙

フランシスク・コワニェ著・石川準吉編訳『日本鉱物資源に関する覚書』羽田書店, 昭和19(1944)【561.11-C83ウ『日本鉱物資源に関する覚書』のデジタル化資料

コワニエによる日本の地質構造、鉱業の現状、伝統的冶金・採鉱法に関する論文。フランスの鉱業協会誌に投稿された。薩摩領内や生野、別子など彼自身の実地視察に基づいた記述と、当時の貧弱な政府統計に頼った他地域の記述との間に疎密のばらつきがみられる。
コワニエは、国立高等鉱山学校(グランゼコール)を卒業後、フランス国内や植民地で鉱山技師を務めたが、幕末の日仏外交に暗躍したモンブラン伯爵(1832-1893)を通じて英国留学中の薩摩藩士・五代友厚(1835-1885)に紹介され、慶応3(1867)年薩摩藩内鉱山調査のため来日した。維新後、生野鉱山の技術指導に携わり、施設の整備などに尽くした。また、鉱石中に金の含有を発見するなど大きな成果を上げ、明治10(1877)年帰国した。

撰鉱場写真

藤原市之助『生野鉱山写真帖』小林写真館, 明42(1909)【特47-101『生野鉱山写真帖』のデジタル化資料

官営生野鉱山の責任者として派遣されたのは、薩摩藩出身で五代らと留学をともにした朝倉盛明(1844-1924)である。旧幕時代には、鉱山の所有権は幕府に帰するものの、採掘権が世襲の山師たちに与えられていたため、官営とするにあたっては彼らの不満も大きかった。明治4(1871)年には、鉱山が焼打ちされ、新たに建設された工場施設がほとんど焼失するという事件も起きている。朝倉は、これに峻厳な処罰で臨み、工場の復興にまい進した。明治29(1896)年に御料局理事生野支庁長を辞職するまで、四半世紀にわたり鉱山の責任者を務めている。
本書は、復興なった明治初期から中期の生野鉱山の姿を伝える写真帳である。選鉱や精錬に近代的な設備が用いられていることがうかがえる。

山岳スケッチ

高島北海 (得三) 『写山要訣』東陽堂, 明36(1903)【187-251 『写山要訣』のデジタル化資料

横須賀造船所や富岡製糸場と同様に、生野鉱山においても洋式技術の伝習が図られ、明治2(1869)年鉱山学校が開校されたことが知られる。また、後に日本画家として知られる高島得三(号北海、1850-1931)は、工部省鉱山寮職員として同5(1872)年生野に赴任し、コワニエからフランス語と地質学を学んだ。同7(1874)年、郷里山口へ帰る道中の見聞を元に、『山陽山陰地質記事』を著した。同11(1878)年からは内務省地理局に勤務し、日本人の手になる初の地質図(『山口県地質分色図』及び『山口県地質図説』)を作成した。その後、農商務省に移り、同18(1885)年から3年間フランス・ナンシー森林高等学校(グランゼコール)への留学を命じられた。フランスで写生画が高く評価され、農商務省退官後は画家として活躍した。本書には、山岳スケッチを収めるとともに、巻末に日本列島の地質図が付されており、地質学・林学の知見に基づいた山岳画の描法が説かれる。

工部省の御雇外国人

明治3(1870)年、鉄道建設のため招へいされた英国人技師エドマンド・モレル(1841-71)の提言により、工業分野を統括する官庁として工部省が設置された。これは、当時大蔵・民部両省を合併し、開明的な政策を推進していた大隈重信(1838-1922)、伊藤博文(1841-1909)らの路線に沿うものであった。以後、明治18(1885)年に廃止されるまで、鉄道・鉱山・工作機械の3部門を軸に官営事業を進めた。殖産興業政策の中で、在来産業の育成に努めた内務省に対して、工部省は洋式技術の導入を性急に推進した。このことが官営事業の経営を脆弱にし、払下げや事業整理につながったとされる。

『工部省沿革報告』冒頭ページ

『工部省沿革報告』大蔵省, 明22(1889)【26-333『工部省沿革報告』のデジタル化資料

本書は、工部省廃止後の明治21(1888)年、大蔵省によって編纂された工部省の沿革史である。内容は、本省以下、鉱山、鉄道、電信、灯台、工作、営繕の各局課及び工部大学校の所管事務ごとに記述されている。局課ごとに御雇外国人の人名表が掲載されており、国籍別では英国人が圧倒的に多いが、鉱山や造船等の分野にはフランス人の名も多数みられ、フランスの影響がうかがえる。