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1-8 大久保利通の政体意見
明治6年の政争(中央は想像図) 『幕末・明治・大正回顧八十年史』第6輯所収
岩倉遣外使節団の帰国後、外遊組の大久保利通・木戸孝允らと留守政府との間には、西郷隆盛の朝鮮派遣問題、いわゆる征韓論の是非を巡る対立が生じた。征韓派の西郷隆盛・板垣退助・副島種臣らは、内治優先を主張する大久保らに敗れ、明治6(1873)年10月に揃って下野した(征韓論の政変/明治6年の政変)。政変後における政体整備は、伊藤博文・寺島宗則両参議が専任となって行うこととなり、大久保は配下の吉田清成・吉原重俊に作成させた意見書を参考として伊藤に提出した。この中で大久保は、日本の風土・伝統に適した「君民共治」に基づく国法の制定を唱えた。
明治六年大久保参議起草政体ニ関スル意見書
- 明治6年[11月]
- 伊藤博文関係文書 書翰の部 503
- 国立国会図書館