ホーム > 第4章 立憲政治の危機 > a. 政党内閣の終焉 > 議会改革の動き
4-3 議会改革の動き
秋田清(衆議院議長記念油絵) 熊岡美彦画 昭和8年9月 『秋田清』所収
昭和6(1931)年の第59回議会で、幣原喜重郎臨時首相代理の失言に端を発した大乱闘事件が起こった。さらに同年の満洲事変がもたらした政情不安で、議会政治への不信が高まっていた。翌年斎藤実による挙国一致内閣が誕生すると、議会は強い危機感を抱き、各政党が協力して自ら議会改革に動いた。
衆議院では、秋田清議長の主導により同年6月から議会振粛各派委員会で協議が進められ、7月15日に同委員会で「議会振粛要綱」が決定された。これは議会の品位向上に加え、議長・副議長の地位向上や、常置委員会設置などによる議会の機能拡充・権限強化を盛り込んだ画期的な改革案であった。しかし、同要綱に伴う議院法改正案は、衆議院各会派の共同提案として3回にわたって議会に提出されたものの、いずれも貴族院で審議未了となり実現しなかった。
一方貴族院では、この間に衆議院と同様の積極的な議論は見られなかった。大正末期の護憲三派内閣による貴族院改革以来、華族議員の削減や職能代表制の導入などが課題に挙げられてきたものの、散発的な動きに留まっていた。昭和13(1938)年に、第1次近衛内閣が議会制度審議会を設置したが、これも両院改革の実現には繋がらなかった。
議会振粛要綱
- 昭和7年7月15日
- 大木操関係文書 7
- 国立国会図書館