第4章 実学としての和算

前章では遊戯的、趣味的な和算を取り上げましたが、江戸時代の数学者たちがすべて遊びに興じていたわけではなかったことは是非強調しておきたいところです。むしろ、遊びとしての数学という側面は、和算の本質の半分しか見ていないとさえいえます。

ならば、残りの半分は何かといえば、それは当時の社会で求められていた数学の実学的側面です。第1章で述べたとおり、多くの和算家は地図作りや暦法の計算などをも手がけていました。地図も暦も社会にとって必要なものです。それらを作成するために和算が応用されていることを、和算家たちは強く意識していました。社会における自分たちの活動の意義、それらを彼らは必死になって求めていました。ともすれば算術は無用であるとか、あるいはそろばんというものは商人だけに任せておけばよいという風潮も根強かったこの時代、和算家たちは機会を見つけては算術の有用性、社会に不可欠なものであることを訴えてきました。

(1) 実学

実学の内容は、地図と暦の作成、計算ばかりではありませんでした。もっと日常生活に密着した分野でも和算家の実践は行われました。

農林漁業

江戸時代の日本は基本的に、農業・漁業・林業に多くを依存する社会でした。特に人が常に手を加えることで維持しなければならない水田の管理には、様々な知と技が投入されました。農業用水の確保と管理もまた、和算家が実践の場として活動したものです。たとえば、19世紀初頭の信濃に竹内度道という和算家がいましたが、彼は近隣農村の依頼に応えて農業用水をくみ上げるための水車を設計し、現地で大工の指導に当たっていたことが知られています。幕末になると、三河の和算家、彦坂範善が豊橋藩の要請に基づき、最新の揚水機の情報を収集し、三河東部の農地にそれを導入する計画を立てるなどしていました。このような場面で頼りにされていたのが各地域の和算家であったわけです。

幕府天文方

地域から中央に話題を移すと、幕府が抱えていた天文台組織である天文方は、当初は毎年の暦の作成のみを業務としていましたが、19世紀以降、その活動の幅を広げていきました。後にも述べるとおり、この組織にはオランダ語の読める人材が投入され、海外事情の翻訳なども幕府は天文方メンバーに命じました(後にこの組織から蕃書和解御用といった部署が派生します)。和算家兼暦学者といった天文方のメンバーは、そのような特殊業務の他にも、西洋の天文学を導入する過程で西洋数学にも触れる機会がかなりありました。西洋数学については次章で紹介しますが、彼らにとってはやはり実学に有効な数学として捉えられていたことがうかがえます。社会の役に立つ数学であるならば、それが日本のものであろうと西洋からのものであろうと差別しない。このような意識で西洋数学の導入に取り組んでいた和算家も、少数ではありますが実際にいました。

役人

役人としての視点から実学を見ると、土木工事の監督や徴税業務などが算術を駆使した実務となります。一般に農村部の民政を「地方(じかた)」と呼び習わしていましたが、これに関わる算法ということで、「地方算法」という言葉も使われました。年貢の換算、検地の仕方、堤防の築き方や水路の維持管理などが、算術の応用として取り上げられ、幕末には多数の書籍が刊行されました。

職人

職人の世界でも、和算的な知識を応用する動きはありました。職人の手間賃の計算などは代表的な例ですが、織物業界では布に織り込む模様のパターンを数値化して記録する工夫も見られるようになりました。

(2) 農村部の知識基盤

前章では全国各地に家元が塾を開いて和算の教育をしたことを述べましたが、都市部ではない農村部で拠点になった塾のうち、少なからぬ数を地域の豪農と呼ばれる人たちが担っていました。東日本、西日本ともに、豪農出身の和算家、和算の実践家を何人か挙げることができます。たとえば、一関藩の千葉胤秀(1775-1849)は肝煎役(世話役)から藩の士分に取り立てられ、地域の和算教育に大きな貢献をしました。また、富山藩の石黒信由(1760-1836)も同様に和算教育、地図作成に活躍しました。岡山藩には小野光右衛門(1785-1858)がいて、地域の顔役であるとともに和算の教育にも熱心に当たっていました。これらの他にも、多くの豪農和算家が和算の教育と実践を支えていました。村で必要となる算術の知識とその普及は、彼ら豪農層が大きな役割を果たしていたのです。

わかりやすい例を挙げると、19世紀の初頭に伊能忠敬(1745-1818)が全国を歩いて地図作りを進めますが、伊能忠敬による測量は、江戸から引き連れてきた伊能の測量チームだけでは決して実現できませんでした。行く先々で、地元の地理と測量の基本を知っていた協力者がいたからこそ、速やかにあの地図は作れたわけです。今述べた石黒信由も、伊能忠敬が富山藩を訪れた際に面会し、地元の地理を案内しています。測量や和算の知識の蓄積が各地域にある程度以上なかったとすれば、伊能の地図作成はもっと困難であったかもしれません。測量や暦学などをも含めた広い意味での算術、和算の知識はこのような実践を可能にしたのです。

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