近代日本人の肖像

兄弟姉妹で活躍した人たち

「近代日本人の肖像」の中には、兄弟、姉妹で活躍した人々の肖像も多く掲載されています。ここで明治時代に活躍した有名人とその兄弟を紹介します。

幸田露伴と兄弟姉妹たち

明治から昭和にかけて活躍した文豪の幸田露伴は、日本の文学界に残した功績の大きさから「大露伴」とも呼ばれています。

兄の郡司成忠は海軍の軍人として活躍しました。また、千島列島を探検した探検家としても有名です。弟の幸田成友は歴史学者・経済史学者として知られています。妹の幸田延、安藤幸は、共に東京音楽学校を卒業し、それぞれピアノ、ヴァイオリンの演奏家・教育者として活躍しました。

大山巌夫人・捨松と2人の兄

山川捨松は、8歳の時に会津城落城を経験し、明治4(1871)年、日本最初の女子留学生としてアメリカに渡りました。帰国後陸軍卿・大山巌と結婚し、社交界に華々しくデビューしました。

捨松の兄・山川浩は、会津城に籠城し、廃藩置県後には陸軍に入ります。西南戦争に従軍して少将となり、軍人の道を歩みます。同じく兄の山川健次郎は、捨松がアメリカに留学した同じ明治4(1871)年、イエール大学に留学します。帰国後の12年に東京大学初の日本人理学部教授となり、学者の道を歩みました。

西園寺公望とその兄弟姉妹たち

大正から昭和初期にかけて元老であった西園寺公望は、若い頃にフランスに留学し、帰国後の明治15(1882)年には伊藤博文の憲法調査に随行して渡欧します。その後政界で活躍し、39年に首相となりました。

西園寺家に養子に入った公望には、兄と弟がいます。兄の徳大寺実則は明治天皇の侍従長になりました。弟には、経済人として活躍した立命館理事の末弘威麿(すえひろ たけまろ)や住友家15代当主となった住友友純、中院家に養子に入った中院通規がいます。友純は古代中国陶器の蒐集家としても有名です。西園寺の妹は旧大名家に嫁いでいます。福子は伊予大洲藩最後の藩主・加藤泰秋へ、永は肥後人吉藩最後の藩主・相良頼基へ、中子は人吉藩14代藩主の長男へ、照子は陸奥棚倉藩最後の藩主・阿部正功へ嫁ぎました。

徳富蘇峰と弟

『国民之友』『国民新聞』を発刊したジャーナリストの徳富蘇峰には、弟・蘆花がいます。兄弟は同志社で学び熊本の大江義塾で学び、蘆花は兄の影響を受けて記者として活躍します。しかし、日清戦争後から兄の蘇峰はリベラルから国粋主義的な考えを持ち、あくまで人道主義を貫く弟の蘆花と訣別し兄弟に溝が生まれました。同じ学び舎の2人は別々の道を歩むことになりました。

西郷隆盛と弟妹

西郷どんと呼ばれ親しまれている西郷隆盛には、弟が3人います。次男の吉二郎は戊辰戦争で戦死し、三男・従道は軍人となり、海軍大将そして日清戦争時には海相となりました。四男の小兵衛は西南戦争で戦死しています。妹の琴は、同じ薩摩藩士市来正之丞の妻となり、鷹も薩摩藩士三原伝衛門に嫁ぎました。三女の安は大山成美の妻となっています。

秋山好古と弟

軍人の秋山好古には弟・真之がいます。兄は陸軍の軍人として活躍し、弟・真之は海軍の軍人として活躍しました。  

    参考文献