ホーム > 歴史史料はこう使う:探求編
斎藤実にわざわざこのような書翰を送るほどに、山梨勝之進が財部彪を案じたのはなぜだろうか。ここでは、この書翰以外のさまざまな史料から理由を探ってみたい。
山梨の自伝から
山梨の自伝には当時の事情として次のように書かれている。
「財部全権が、自信のないような、ふらふら腰で、帰られては困るというので、古賀副官を梃[てこ]入れにハルピンまで派遣した。幸い、財部大臣は、帰途北鮮検閲中の谷口呉鎮長官および斎藤朝鮮総督に会って、大いに元気づけられ、腹をきめて、五月十九日帰京した」
山梨勝之進先生記念出版委員会編刊『山梨勝之進先生遺芳録』(1968年)(p.129)
書翰と同様、自伝の記述からも財部を心配する山梨の姿がうかがえ、斎藤実が財部の相談役となっていたらしいことが伝わってくる。ただ、この自伝は後年の回想であるため昭和5年当時の史料で裏づけを取る必要がある。実際のところはどうだったのだろうか?
財部彪の日記から
そこで当事者である財部彪の日記(昭和5年5月7日付)をひもとくと、斎藤実との会談について触れられてはいるものの、残念ながら詳細は分からない。ただ、当時の財部の状況認識をうかがわせる記述はみられ、そこには、東京日日新聞の記者の来訪を「早速新聞記者ノ前哨戦ニ遭遇」と評し、「統帥権問題ノ東京ニ於テ白熱的ニ」起きていることを新聞によって知ったことが記されている。
財部彪「日記」(「財部彪関係文書」44 国立国会図書館憲政資料室所蔵)
どうも当時の新聞の状況がキーポイントになりそうである。これを手がかりにもう少し事情を探ってみよう。
新聞報道から
財部が日記に記したように、当時の新聞では統帥権をめぐる議会での攻防が連日のように報道され、とりわけ財部の動きが注目されていた。中には事態の紛糾は財部の「軽率」が原因だと報じた新聞もあったほどである。
事ここに至った原因は財部海相の軽率から
『東京朝日新聞』 昭和5年5月9日夕刊
このように政争の渦中にあった財部の言動が一貫性を欠くなどすれば、紛糾は必至であったろう。山梨勝之進が財部を案じたのもこうした理由によるのではないだろうか。
ロンドン海軍軍縮条約のその後
元老、重臣、世論の支持を背景に議会を乗り切った浜口内閣は枢密院での審議を押し切り、10月2日に条約の批准に至った。その翌日、財部は海相を辞任している。 しかし、この調印を「統帥権干犯」であるとする非難の声は根強く、昭和5年11月、浜口雄幸首相は急進的な国家主義者に狙撃され重傷を負う。結局、昭和6(1931)年4月には浜口内閣は倒れた。
このように政治的混乱を招きながら締結されたロンドン海軍軍縮条約であったが、日本は昭和11(1936)年には条約から脱退、軍縮時代に終止符が打たれることとなる。
このコーナーで示したのはあくまで史料の使い方の一例にすぎず、異なる立場から記された史料を重ね合わせることで、より立体的な理解が生まれるかもしれない。一通の書翰の中に当時の時代状況が反映されている様子を少しでも読み取っていただくとともに、当展示会の史料を見る手がかりとしていただければ幸いである。
【関係資料】
財部彪「日記」(「財部彪関係文書」44 国立国会図書館憲政資料室所蔵)
山梨勝之進先生記念出版委員会編刊『山梨勝之進先生遺芳録』(1968年)<当館請求記号GK158-39>
海軍条約調印式光景 『東京朝日新聞』 昭和5年5月7日夕刊
【参考文献】
- くずし字の読解には
- 『くずし字用例辞典』新装版(東京堂出版,1993年)<当館請求記号KC612-E52>
- 海軍関係の人物の経歴などには
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版(東京大学出版会,2005年)<当館請求記号 A112-H259>
- 政治家の伝記を探すには
- 近現代日本政治関係人物文献目録
- さらに背景を詳しく知りたい方に
- 日本国際政治学会太平洋戦争原因研究部編著『太平洋戦争への道』第1巻(新装版,朝日新聞社,1987年)<当館請求記号GB531-246>
伊藤隆『昭和初期政治史研究 ロンドン海軍軍縮問題をめぐる諸政治集団の対抗と提携』(東京大学出版会,1969年)<当館請求記号GB521-3>