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第4章 立憲政治の危機

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c. 政党の解消と翼賛政治

4-13 日米開戦

炎上するホイラー陸軍飛行場 『大東亜共栄圏写真大観』所収
炎上するホイラー陸軍飛行場 『大東亜共栄圏写真大観』所収

次第に緊迫の度を増してきた日米間の外交交渉は、昭和16(1941)年4月より政府間交渉へと移行していたが、日本は7月2日の御前会議の決定により、同月下旬、南部仏印へ進駐を開始した。これに対し米国は、在米日本資産凍結や対日石油全面禁輸等の報復措置をとり、日米交渉は行き詰まりをみせた。近衛首相は有田元外相宛書翰の中で、「仏印進駐は日米交渉に影響なし」という軍部の見込みが誤っていたことを、吐露している。

一方、昭和14(1939)年に外務省を退官した吉田茂は、対米関係の悪化を憂慮して、牧野伸顕、近衛文麿、木戸幸一などの重臣間を奔走していた。しかし日米交渉は進展を見せず、昭和16(1941)年11月26日、米国はハル・ノートを日本側へ手交、これを実質的な最後通牒と受け取った日本は12月1日の御前会議で開戦を決定した。吉田は岳父の牧野に宛てた書翰で、東郷茂徳外相が部下に「最早倒閣以外に開戦を阻止する方法なし」と語ったことを伝えた。

近衛文麿書翰 有田八郎宛

『近衛文麿書翰 有田八郎宛』
  • [昭和16年8月3日]
  • 憲政資料室収集文書 1159
  • 国立国会図書館
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吉田茂書翰 牧野伸顕宛

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