明治27年要人の運勢
一寸先は闇でも際どい決断を迫られる政界に身を置く人々には、しばしば予知や予言に心惹かれることがあるらしい。ヒトラー総統の占星術への傾倒は有名だが、近年では星占い好きのレーガン大統領夫人の「内助の功」が取り沙汰されたことは記憶に新しい。伊藤博文文書の中に残っている「明治二十七年易占」は、或は日本におけるこの種の痕跡かも知れない。この「易占」は冒頭に「皇国」と「聖上」の運勢を掲げ、ついで国家機構、政策課題、官庁ごとの運勢に移る。後段では伊藤以下27名の政界要人の運勢が掲げられている。
明治27(1894)年は日清戦争(明治二十七八年戦役)と治外法権撤廃調印の年である。この易占では「治乱」は「火地晋二爻」とされている。これは難航するが初志を貫けば実現するという卦とされる。「条約改正」は「山地剥二爻」だが、これは凶運で交渉事には危険とされている。この年には鹿鳴館を大破させた明治27年東京直下地震が起きているが、「地震」の卦は「火地晋五爻」と出ている。これは諸事順調の吉運である。一方、主人公・伊藤博文は「沢山咸五爻」と出ているが、欲に流れず自重を勧める卦とされる。日清戦争と条約改正の立て役者・陸奥宗光の「山水蒙五爻」は「目上の者や先輩の意見に従えば吉運」とするものである。中っていると言えば言えるし、中っていないと言えば言える。肺患の悪化でとみに健康が衰え、翌春に死去した井上毅文相の「地火明夷四爻」は危険の急迫で中っているが、井上が重病人なのは誰でも知っているので、的中とまでは断言できない。
さて、この易占を作ったのは誰だろうか。真っ先に思い浮ぶのは高島嘉右衛門(呑象)である。高島は日本の易の大成者として名高いが、本来は横浜財界人であり、横浜駅近くの高島町にその名を残している。伊藤の養嗣子博邦の岳父でもあり、伊藤とは姻戚関係にある。政局の節々に伊藤の求めに応じて易占を行ったという。新聞報道には伊藤が議会の形勢を占ってもらったという記事が散見する。伊藤が遭難する直前に「艮為山」の卦を立て、伊藤に旅行取り止めを勧めたとの伝説もある。高島の易占が要人の話題だったことは岩倉具視や元田永孚の伊藤宛書翰にも見えるが、この易占には署名は無く、筆跡から当否を断定することも出来ない。もっとも伊藤の晩年の側近・小松緑によると、伊藤はあれは「後占」だから中るのだと語っていたという。