選挙遊説今昔
政党政治家にとって最も忙しい時期、それは選挙である。ここでは、政党人なかでも党首の遊説の変遷をみてみよう。
明治27(1894)年2月5日、自由党総理板垣退助は第3回総選挙を前に東京を出発し、投票日である3月1日に帰京するまで25日間遊説した。その模様は同行者である龍野周一郎の記録(「龍野周一郎関係文書」)などに詳しいが、それによれば当時の長距離移動手段はもちろん汽車で、しかも主要な幹線網しかなかった。板垣が駅に着くや多数の支持者が出迎え、一緒に人力車を連ねて各郡の演説会場や懇親会場に向けて走り、県境や郡境では現地の住民が緑門(木の葉で作ったアーチ型の門)を作り、煙火をあげ大旗を立てて迎え、やはりともに会場まで移動した。会場は劇場や境内がしばしば使用され、数百名から三千名の聴衆が集まるのだが、演説は1人1時間を超えることが普通であった。結局、板垣は静岡、岐阜、京都、大阪、兵庫、奈良、三重と東海、関西を中心に約2,000km弱(1日平均80km)ほど移動したことになる。
熱弁をふるう大隈重信 『図録大隈重信』(早稲田大学出版部)所収
大正4 (1915)年3月16日、大隈重信首相は第12回総選挙で与党応援のため遊説に出発した。ただし、第1次世界大戦中であり、また大隈が77歳という高齢で且つ足も不自由であったためか、東京→大阪→金沢→名古屋→東京→横浜→東京を汽車で足早に移動するというもので、結局大都市を5日間廻っただけであった。しかし、この遊説を現在でも語り継がれるほど有名にしたのは車窓演説であった。駅には候補者と支持者が多数詰めかけており、大隈はわずか2分間の停車時間であっても、汽車の窓から顔を突き出し演説した。そして、汽車が走り始めると候補者と堅く握手を交わし、聴衆からは大隈の万歳三唱が起こるのであった。大隈は各停車駅でこれを行い、しかもその場その場で内容も変えていたという。また、夜行列車での移動もあった(『大隈侯八十五年史 第3巻』復刻、原書房、1970)。このように、移動距離こそ1,100km程度(平均220km)と短いが、演説回数も聴衆数も非常に多く、効率的で中味が濃いものであったといえよう。
吉田茂の高知遊説 『毎日グラフ』第134号所収
昭和28(1953)年自由党総裁吉田茂の場合は、第26回総選挙に備えて4月5日に東京を出発、名古屋・三重・岐阜・富山・石川・福井・京都・大阪・和歌山・高知・高松・徳島・岡山・兵庫・京都・東京と、約2,000km(平均150km)の行程を4月17日までの13日間で廻るというものであった(6章 昭和二十八年四月総選挙遊説日程「安斎正助関係文書」 )。長距離の移動は東京羽田・名古屋、大阪伊丹・高知、伊丹・羽田間など飛行機が利用された。また自動車も有効に利用され、各町村の小学校・公会堂・公園で数多くの演説をこなすことができた。しかし、演説時間は1人20分程度とずいぶんと短かった。また、彼が外交官出身であるためか、海外赴任の時のようにこまごました身の回り品も携行した。
こえて平成22(2010)年7月の第22回参議院議員選挙の時では、報道によれば、各党の党首は公示日以降の15日間で9,000~17,000km(平均600~1,100km)ほど遊説したという。これは飛行機をフルに活用しているわけで、そのために1日平均の移動距離は格段に増加したのであるが、その行程をみれば、特定地方を周遊するというのではなく、東京から全国主要都市へのピンポイント往復を繰り返すことが多いようである。
党首といえども、生身の人間である。彼らは交通手段との兼ね合いを考慮しながら、体力の許す限りの範囲内で国民を熱狂させようとした。板垣は1日の移動距離こそ短いが農村に入り込み、また選挙民と一緒に動くなど接触は濃厚であった。大隈は鉄道駅と大都市演説会場で接するだけであったが、選挙民は彼を見るためにそこに出向いた。吉田は飛行機と自動車を利用し、農村にも出向いて多くの有権者と接触したが、演説時間は短くなった。そして平成では、飛行機で全国の都市を数多く廻り、マイク片手に短時間で大衆を熱狂させようと訴えた。概して言えば、党首側としては直に接する国民の数はどんどん増えたが、その国民を熱狂させるための時間は短くなり、その工夫が求められてきたといえよう。