伊東巳代治の国連脱退反対運動
昭和8(1933)年2月24日、国際連盟総会は満洲における日本の特殊権益を認める一方、同地方の主権は中国にあるとする対日勧告を採択した。それは「千九百三十一年九月前ノ原状ヘノ単ナル復帰ヲ定ムルモノニ非ズ」とされたが、日本は前年九月、日満議定書により満洲国を正式承認していたので落とし所を見出すのは困難だった。この問題は前年12月9日、十九ヶ国委員会に付託されていたが、委員会の段階で日本の劣勢が明らかになっていたことから、1月下旬になると国連脱退の主張が各界で頻りに唱えられるようになった。それは朝野、左右を問わず、ほとんど国を挙げての現象と化したが、その中にあって独り国連脱退に異を唱えた人物がいた。
それは帝国憲法の起草者の一人で伊藤博文の懐刀として聞えた伊東巳代治である。伊東は明治32(1899)年以来、枢密院に蟠居し、政党内閣期には「内閣の鬼門」として恐れられた。金融恐慌救済緊急勅令問題では第1次若槻内閣を倒し、不戦条約問題では田中内閣を倒壊寸前まで追い詰めた伊東はロンドン条約問題で浜口内閣に一敗地に塗れてからは鳴りをひそめていたが、今ここに脱退反対に立ち上がったのである。伊東は2月6日夜のラジオで十九ヶ国委員会の審議が満洲国の不承認で固まったことを聴き、憂慮のために寝つけなかった。9日、伊東は来訪した二上兵治枢密院書記官長に「脱退の危険なる事并に其理由なきこと」を内閣に伝えるよう求めた。二上は大正5年以来、枢密院書記官長を務め、「枢密院の主(ぬし)」とも「枢密院の癌」とも言われた人物である。ここから伊東の活動が始まり、10日には政友会の望月圭介、11日には国家主義者の杉山茂丸(作家夢野久作の父)、12日には政友会代議士の西岡竹次郎、13日には東京日日新聞社副社長の岡実(政治学者岡義武の父)、実業家の山下亀三郎、14日には政友会の岡崎邦輔(陸奥宗光の従弟)に外交の失敗を痛罵し、潜水艦の急造など軍備の拡張を主張している。伊東は満洲国の承認そのものに反対していたのではなく、日本の国際的孤立がもたらす軍事的危機を憂慮していたのである。
ここまでは政府の外交失策への批判だったが、14日に来訪した貴族院議員の石塚英蔵に牧野伸顕内大臣に対して「一朝の怒に乗して聯盟を脱するの不可なる所以」を忠告せよと依頼したあたりから国連脱退反対運動が本格化する。同じ日には来訪した外交官の吉田茂に「英国に頼りて一箇年の猶予を求むへきこと」を内田外相に伝えよと求めている。イギリスは在華権益を守るために日本との妥協を模索しており、伊東はここに期待をかけたのであろう。15日には旧友でライバルでもある枢密顧問官の金子堅太郎と会い、金子に栗野慎一郎・黒田長成の両顧問官に国連脱退反対を働きかけるよう勧説した。伊東は原嘉道・元田肇の両顧問官には自分が接触すると述べている。16日、山下の取り次ぎで海軍大臣の大角岑生が来訪したので、伊東は国連脱退は南洋委任統治領を失うことになるとして反対を説いた。大角は、国連に1年の猶予を求めよとの伊東の提議については熱河作戦が始まろうとしているので覚束無いと答えた。伊東は大角に進退を賭して脱退に反対するよう勧告した。17日には貴族院議員の児玉秀雄(源太郎の長男)、民政党の俵孫一に入説し、児玉は翌日、斎藤実首相に伊東の意向を伝達した。
18日、岡が大角の内意を伝えに来訪した。大角は自分一人が一身を賭しても国内を紛擾させるだけなので、伊東の注意に背くことになるかも知れないと言って来た。要するに反対は出来ないということである。海軍の反対に期待をかけていた伊東はかなり失望した。19日、荒木貞夫陸軍大臣が来たので、伊東は外交的には遷延策をとって、その間に中国の譲歩を引き出すべきだったことや潜水艦の急造などの持論を展開した。伊東は近く開始される熱河作戦について触れ、さらに問題が起きるので国連からの全権引揚げや脱退は不得策で軽挙だと説いた。荒木からは特段の意見はなかったようだ。実質的に賛同しなかったのだろう。
伊東の狙いは枢密院だけでなく、政官界の有力者に広く働きかけることで潜在している脱退反対論に点火し、最終決定の鍵を握る唯一の元老西園寺公望の意思形成に影響を与えることだったらしい。伊東の反対論はあくまで国連に留まって主張を貫くことが日本の国益にかなうというもので、二上が「硬軟ノ別ナラ却テ非脱退説ノ方ガ硬論ト云フコトカ出来ル」(「倉富勇三郎日記」昭和8年2月15日条)と評するように、決して「協調外交」「親英米論」の立場をとるものではなかった。
20日、伊東はラジオで西園寺が「内閣の提唱に一もなく雷同したる様子」を聴いた。「上下挙って聯盟の態度に憤懣の余り自制する所を知らす、一に脱退論に邁進しつゝあり」と判断した伊東は、自分はすでに首相・陸海相に忠告したので「今後一切此問題に触れさる覚悟を為すに至れり」と、脱退反対運動を諦め、この問題に背を向けたのである。誇り高い伊東は政治的なプライドが勝ち目の薄い抗争で傷つくのを嫌ったのであろう。半世紀に及ぶ政治生活で伊東が放った最後の淡い光茫であった。