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元号伝説 - ポスト「大正」は「光文」か?

昭和を彩る様々な「謎」や「秘史」の最初のものに「〈大正〉の次の元号は実は〈光文〉だった」という伝説がある。『東京日日新聞』が政府の公式発表前に号外でいち早くスクープしたため、〈光文〉が急遽、第2候補の〈昭和〉に差し替えられたのではないかという疑惑である。『東日』の元号誤報事件は本当は「誤報」ではなかったのではないかというわけである。ポスト〈大正〉の本命は〈光文〉だったという「証人」は複数いて、かつて人気クイズ番組に登場したこともある。


〈光文〉が新元号候補の中に存在したということ自体は事実である。「昭和大礼記録」をもとに書かれた石渡隆之「公的記録上の「昭和」」(『北の丸』7)によると、〈光文〉は内閣がまとめた5つの新元号案の中に見えている。しかし、新元号案作成作業(勘進)の中心となったのは実際には宮内省で、勘進第1案10種、第2案5種、第3案3種の中には〈光文〉は見えない。逆に〈昭和〉はすべてに含まれている。第3案は〈昭和〉〈神化〉〈元化〉だが、内閣と宮内省が協議を重ねた結果、〈昭和〉が最終候補となり〈元化〉と〈同和〉が「参考」として添えられることになったという。〈同和〉は勘進第2案まで残っていたものである。これに従えば〈光文〉は内閣案の一つが選定作業中に漏れたに過ぎないということになるが、「昭和大礼記録」は編纂された史料なので〈昭和〉が最初から新元号だったというシナリオで再構成されたものだと強弁することも不可能ではない。


倉富勇三郎の日記 大正15年「倉富勇三郎関係文書」8-9~13[史料画像]
倉富勇三郎の日記 大正15年「倉富勇三郎関係文書」8-9~13

さて、新天皇が践祚(即位)すると「改元の詔書」が出されるが、この詔書は枢密院に諮詢されることになっている。当時の枢密院議長倉富勇三郎の日記には一木喜徳郎宮内大臣との協議の模様が記録されており、新元号選定作業の裏面を窺うことができる。大正15(1926)年12月8日、倉富は一木と内談し、代替りに伴う儀式・枢密院審議が円滑に進むよう調整を行った。一木は倉富に対し新元号について「全体ハ内閣ニテ準備ヲ為スコトナレトモ、内閣ニテ之ヲ為セハ直ニ漏ルル憂アルニ付、筋違ニハアレトモ宮内省ニテ吉田〔二字欠〕ニ命ジ之ヲ選ハシメ三種ヲ選ミ若槻(礼次郎)ニ之ヲ云ヒ、若シ意見アリトテ内閣ヨリ改選スル様ノコトヲ為セハ漏洩スルニ付、意見アラハ宮内省ニ通知スルコトニ約シ置タリ」と述べているが、この吉田とは宮内省の勘進案を起案した吉田増蔵のことである。


一木は続けて内密だと断った上で新元号選定作業について「其一ハ昭和(出所ハ堯典ニ在リ)、其二ハ〔一字欠〕和(忘レタリ)、其三ハ元化カ (忘レタリ)」との現状を倉富に明かしている。其二の「 和」は最終案の「同和」と考えられるので、一木が倉富に内示したものは内閣との調整を経た最終案であろう。勘進第3案から最終案に至る経過の説明が簡略化されているようであるが、12月8日の時点で〈昭和〉を最終候補とし〈元化〉〈同和〉を「参考」とする最終案が成立していたことは疑いないものと思われる。一木は元老西園寺公望や内大臣牧野伸顕らは「大概第一カ宜シカラン」と述べていると語っており、〈章和〉の方が良いと思うが外国に同じ元号があるようだとも話している。これは後漢の章帝時代の元号のことで西暦87年から88年まで使われた。倉富は「惜ムヘキコトハ昭ノ字カ少シ難キコトナリ」と応じており、新元号が〈昭和〉となることを前提に話が進められている。「昭」の字が難しいというのは〈昭和〉に慣れた現代人には意外な感じがするが、この漢字はそれまでほとんど使われることがない字であった。一木と倉富はこの後、「昭」の字は文部省が定めた漢字の中に含まれているだろうかという問答を行っている。もっとも、この直後から数年にわたって「昭一」「昭」「和子」など新元号にちなむ人名が一大ブームを巻き起こすことになる。


このように新元号は12月8日の時点で事実上、〈昭和〉に決定していたと考えられる。大正天皇が崩御した12月25日の「倉富日記」には「元号建定ノ件ノ御諮詢」についての記事があるが、改元詔書の字句の調整に関する記述が見えるだけで元号差し替えの痕跡は認められない。当時、御病状報道をめぐり、宮内省・政府と新聞社の攻防が熾烈化しており、宮内次官関屋貞三郎の日記の12月15日条には「新聞社ノ社会部長ニ面会、御重態ノ場合ニハ発表ヲ葉山ト東京トテ同時ニ行フコトヲ声明セリ」との記述が見える。〈光文〉は一木が心配した通り、内閣の作業の一部が漏れたもので、極度の情報管制が行われていたことから記者が検証できないまま飛びついたものであろう。

倉富勇三郎日記 大正15年12月8日条「倉富勇三郎関係文書」 8-11・12

倉富勇三郎日記 大正15年12月8日条「倉富勇三郎関係文書」 8-11・12[史料画像]
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