薩摩藩主島津重豪(1745-1833)の命により編纂された農業百科事典。寛政5年(1793)に編纂が開始された。農事、五穀、菜蔬、薬草、魚介、禽獣等の部に分けて当初は100巻を予定していたが、二度の火災による版木の焼失や藩の財政窮乏で、公刊されたのは最初の3部30巻のみである。品名にはオランダ語訳が付されている。本書には多色刷りの特製本と墨刷本があるが、この本は前者で、挿絵が美しい。重豪は好学で知られ、ティチィングやシーボルトとも直接交流した。
カール・ペーテル・ツュンベリー(Carl Peter Thunberg, 1743-1828) スウェーデンの医師、植物学者。生物分類学の方法を確立したリンネに学ぶ。オランダ東インド会社医師として安永4年(1775)来日。商館長の江戸参府にも随行し、桂川甫周、中川淳庵ら蘭学者と交流した。翌年離日。帰国後はウプサラ大学教授、学長を歴任。ツュンベリーの肖像はフランス語版『日本紀行』(1796)から取った。 |
|
Upsala: J. Edman, 1788-93. 4 v. <WB26-15>
本書はツュンベリーが帰国後にまとめたスウェーデン語の紀行。全4巻のうち、第3巻と第4巻の最初の部分が日本の記述となっている。のちにフランス語等に翻訳された。この画像は日本語の単語集の部分で、「bitter」を「nigaka, nigai」(にがか、にがい)とするなど、九州方言が見られるのが興味深い。図は三味線を持った普段着の日本女性、墨、そろばんや筆が入っている小箱。
Lipsiae: I. G. Mulleriano, 1784. 1 v. <別-25>
『日本植物誌』。ツュンベリー自身が日本で集めた植物、ケンペルや日本の本草書を参考に、日本の植物を初めてリンネ式に分類整理したもの。序文にはツュンベリーと交流があった桂川甫周(次項)や中川淳庵の名が見える。この本は文政11年(1828)、長崎留学から尾張に帰る伊藤圭介にシーボルトから贈られたもの(シーボルトの節参照)で、圭介から孫の篤太郎に伝えられたことが墨書からわかる。圭介は本書をもとに『泰西本草名疏』を著した。なお、日本で初めてリンネ式分類を採用した図説に、飯沼慾斎の『草木図説』がある。伊藤文庫。
イサーク・ティチィング(Isaac Titsingh, 1745-1812)
アムステルダム生まれ。医学教育を受けたが、オランダ東インド会社に勤務し、安永8年(1779)に商館長として来日、3期にわたって通算3年8か月滞在した。1780年と82年には江戸参府している。島津重豪、朽木昌綱ら諸侯、吉雄耕牛らオランダ通詞、桂川甫周、中川淳庵ら蘭学者と広く交流し、離日後も文通を重ねた。
's Gravenhage: W. J. Allart, 1824-25. 2 v. <GB349-4>
ティチィング『日本風俗図誌』のオランダ語版。フランス語で出版された『日本における婚礼と葬式』(1819)と『歴代将軍譜』(1820)をショーバールが英訳して1822年に出版し(Illustrations of Japan <GB341-3>)、2年後にさらにオランダ語訳されたもの。田沼政権の動向や天明3年(1783)の浅間山の噴火など、同時代の記事が豊富なことが特色。
朽木昌綱著 松園主人編 東都 松本平助[ほか] 天明7(1787)刊 1冊 <191-326>
朽木昌綱(1750-1802)は福知山藩主。前野良沢に蘭学を学び、江戸参府のオランダ人や長崎通詞と交際した。本書は欧州全域と植民地の貨幣の図と解説から成っており、貨幣を通じた海外事情紹介書ともいえる。この画像はオランダの部分で、「本朝ニ来ル故ニ甚得ヤスシ」とある。朽木がティチィングに宛てたオランダ語の書簡中には、欧州の貨幣の送付を依頼する内容のものもある。名古屋の貸本屋大野屋惣八(大惣)旧蔵。
曽槃、白尾国柱[ほか編] [文化年間(1804−1817)]刊 30冊 <WB1-10>
薩摩藩主島津重豪(1745-1833)の命により編纂された農業百科事典。寛政5年(1793)に編纂が開始された。農事、五穀、菜蔬、薬草、魚介、禽獣等の部に分けて当初は100巻を予定していたが、二度の火災による版木の焼失や藩の財政窮乏で、公刊されたのは最初の3部30巻のみである。品名にはオランダ語訳が付されている。本書には多色刷りの特製本と墨刷本があるが、この本は前者で、挿絵が美しい。重豪は好学で知られ、ティチィングやシーボルトとも直接交流した。