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6. 幕末オランダ留学生

嘉永6年(1853)のペリー来航以後、西洋の学術・技術の導入は急務であった。幕府はそのために西欧に留学生を派遣する計画を立て、当初軍艦注文と留学生の派遣先にアメリカを考えていたが、南北戦争のために断られると、オランダに依頼を働きかけ、軍艦の発注と留学生派遣を交渉、決定している。文久2年3月13日(1862.4.11)に命を受けたメンバーは、軍艦操練所から榎本武揚(釜次郎)、沢太郎左衛門、赤松則良(大三郎)、内田正雄(恒次郎)、田口俊平、蕃書調所から津田真道(真一郎)西周(周助)、そこに、長崎で医学修行中の伊東玄伯、林研海が加わり、さらに鋳物師や船大工等の技術者である職方7名が一行に加わった。オランダ留学生達は、留学先で海軍関連の技術や社会科学、医学等を学んでいる。

同年6月18日(7.14)咸臨丸に乗船して江戸を出て、8月23日(9.16)長崎に入り、9月11日(11.2)オランダの商船カリップス号にてバタビヤに向かった。10月6日(11.27)にスマトラ島の東ガスパル海峡での遭難を経て、10月18日(12.9)バタビヤに着き、文久3年2月8日(1863.3.26)にはセントヘレナ島のナポレオンの古跡を訪ねて、4月16日(1863.6.2)にオランダに到着。ロッテルダムを経てライデンに到着し、一部はハーグへ向かった。翌月には学習を開始している。

慶応元年10月14日(1865.12.1)にまず西と津田が帰国の途につき、慶応2年10月(1866.11)には伊東、林、赤松以外は注文した軍艦開陽丸で帰国した。赤松は大政奉還後の慶応4年5月17日(1868.7.6)に、伊東と林は明治元年12月3日(1869.1.15)に帰国の途についている。

文久年間和蘭留学生一行の写真

1枚 <津田真道関係文書47-3>

1865年オランダで撮影。後列左から、伊東玄伯、林研海、榎本武揚、(布施鉉吉郎)、津田真道。前列左から、沢太郎左衛門、(肥田浜五郎)、赤松則良、西周。内田正雄と田口俊平は欠席。( )は留学生ではない。

沢太郎左衛門

沢太郎左衛門(1835-1898)

江戸生まれ。海軍軍人。蘭学を学ぶ。安政4年(1857)幕命により長崎海軍伝習所へ留学。文久2年(1862)から慶応3年(1867)までオランダ留学。砲術、火薬製造法を中心に学ぶ。慶応4年8月(1868.10)、榎本武揚が江戸を脱出し蝦夷地に向かう時に、開陽丸に乗り込み戦った。明治2年5月(1869.6)降伏、糺問局の獄に繋がれる。5年1月(1872.2)特赦、翌月兵部省出仕、その後、火薬工場創設に尽力。

沢太郎左衛門の肖像

沢太郎左ヱ門航海日記

自筆 1冊 <赤松則良関係文書29>

文久2年6月18日(1862.7.14)から文久3年1月19日(1863.3.8)までの航海の時期を記載。後にまとめて書いたものと推察される。この画像は10月6日(11.27)の乗っていた船の座礁の件、18日(12.9)のバタビヤ到着の記事である。

赤松則良

赤松則良(大三郎)(1841-1920)

江戸生まれ。海軍軍人。父吉沢雄之進は幕臣。赤松家の養子に入る。オランダ語を学ぶ。安政4年(1857)幕命により長崎海軍伝習所で測量航海等を学ぶ。万延元年(1860)咸臨丸で米国渡航。文久2年(1862)から慶応4年(1868)までオランダ留学、造船、理学を主に学ぶ。明治3年(1870)兵部省出仕、その後、海軍兵学校大教授、7年(1874)海軍少将、20年(1887)男爵、海軍中将、22年(1889)佐世保鎮守府司令長官。37年(1904)貴族院議員。

赤松則良の肖像

日記

赤松則良 自筆 1冊 <赤松則良関係文書21>

冒頭に簡単な履歴を記す。年譜形式で、安政4年(1857)から年を追って略記する。オランダ留学については文久2年(1862)から3年(1863)のハーグ着までを記す。慶応・明治初期に筆記したものか。

赤松則良書簡 吉沢金四郎宛

文久2年閏8月20日(1862.10.13) 自筆 1冊 <赤松則良関係文書3-39>

長崎から実弟である金四郎に宛てる。則良が留学中の学習について注意を与えている。さらに所蔵している蘭書や、操練所から借りている本の処置を頼んでいる。

航海日記 第二

赤松則良 自筆 1冊 <赤松則良関係文書32>

3冊残されている赤松則良の航海日記の最後の1冊。第二は第三の誤り。文久3年2月11日(1863.3.29)から4月19日(6.5)、セントヘレナ島出発からライデン到着までの期間を記している。この画像は4月16日(6.2)のオランダ、ブローウェルスハーフェン入港から19日(6.5)までの記事である。

赤松則良書簡 吉沢源次郎宛

文久3年4月19日(1863.6.5) 自筆 1冊 <赤松則良関係文書3-42>

ライデンから実兄である源次郎に宛てる。無事にオランダ、ライデンに到着したことを記し、欧米の事情とともにヨーロッパにおける生麦事件の伝聞について伝える。

和蘭滞在日記

赤松則良 自筆 1冊 <赤松則良関係文書34-1>

文久3年5月7日(1863.6.22)から慶応元年4月29日(1865.5.23)までのオランダ滞在中の日記。日本暦、西洋暦、曜日、江戸出発何日め、オランダ到着何日めなどと細かく記す。文久3年7月1日(1863.8.14)には林、榎本と鉄板の硬度を試す実験の参観。9月6日(10.18)にはロッテルダムへ行く。元冶元年2月21日(1864.3.28)には造船所へ足を延ばしている。

蘭行日記書簡留

赤松則良 自筆 1冊 <赤松則良関係文書36>

前半は書簡の控え。後半はオランダから帰国する際のお土産を図とともにしめしている。

内田正雄

内田正雄(恒次郎)(1839-1876)

江戸生まれ。父萬年三郎兵衛は幕臣。内田家の養子に入る。蘭学を学ぶ。安政4年(1857)幕命により長崎海軍伝習所へ留学。文久2年(1862)から慶応3年(1867)までオランダ留学、海軍関連の諸術を学ぶ。帰国後、開成所に勤め、その後、明治6年(1873)文部省を辞す。『仏国刑法註釈』『地学教授本』などの訳書をあらわした。

内田正雄の肖像
(宮永孝『幕府オランダ留学生』<GB383-41>より)

内田正雄日記

自筆 1冊 <赤松則良関係文書30>

航海中の印象記。文久2年10月6日(1862.11.27)から18日(12.9)までのカリップス号遭難の記述と、翌3年2月7日(1863.3.25)から10日(3.28)までのセントヘレナ島にて、ナポレオンの古跡を訪ねた様子を記す。林若樹旧蔵。

内田正雄書簡 赤松大三郎宛

慶応2年12月16日(1867.1.21) 自筆 1枚 <赤松則良関係文書13-1>

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西洋紙にペン書き。リオデジャネイロ港より帰国船中の内田から、引き続き留学していた赤松大三郎への書簡。日本文にカナ書きのオランダ語を交える。帰国船(開陽丸)の丈夫なことを伝える。

津田真道

津田真道(真一郎)(1829-1903)

津山生まれ。洋学者、啓蒙思想家。父は津山藩士。儒学を学び国学を好む。江戸に出てオランダ語、兵学を学ぶ。安政4年(1857)幕府の蕃書調所教授手伝並となり、文久2年(1862)から慶応元年(1865)までオランダ留学、西周とともに自然法、国際公法等を学ぶ。明治2年(1869)刑法官権判事、かたわら明六社に参加し『明六雑誌』に論文を発表した。9年(1876)元老院議官、23年(1890)に衆議院議員、のち貴族院議員となる。

津田真道の肖像

はなのしをり

津田真道 自筆 1冊 <津田真道関係文書21>

文久2年6月18日(1862.7.14)江戸出帆から翌年3月23日(1863.5.10)までの航海日記。江戸を出て、6月23日(7.15)に下田に着いてから、麻疹が流行るが、津田自身は「幼かりし時に病みたり、ゆゑにおそるゝことなし」と記している。日々の記述のところどころで、歌をよんでいる。

津田真道書簡 津田なか宛

文久2年10月23日(1862.12.14) 自筆 1枚 <津田真道関係文書32>

津田真道がバタビヤから、妻の仲子に宛てたもの。その数日前に留学生たちの船が遭遇したガスパル海峡での遭難について記す。

西周

西周(周助)(1829-1897)

島根生まれ。啓蒙思想家。父は津和野藩医。藩校や大坂で儒学を学んだのち、江戸に出てオランダ語、英語を習得。安政4年(1857)幕府の蕃書調所教授手伝並となり、文久2年(1862)から慶応元年(1865)までオランダ留学。津田真道とともに自然法、国際公法等を学ぶ。明治3年(1870)兵部省出仕、かたわら明六社に参加し『明六雑誌』に論文を発表した。15年(1882)元老院議官、23年(1890)貴族院勅選議員。西洋哲学、論理学等の導入者として翻訳も多い。「哲学」などの訳語を考案した。

西周の肖像

西家譜略・履歴

西周 自筆 1冊 <西周関係文書1>

編年形式の自叙伝。家譜略を掲げ、履歴として誕生より記す。西周のオランダ留学については、文久2年(1862)の条に留学の由来を掲げ、江戸出発からセントヘレナへの寄港までを記す。その後にオランダで学習した自然法、国際公法等の大要を記している。森鴎外『西周伝』に利用された資料。

和蘭帰路紀行

西周 自筆 1冊 <西周関係文書12>

慶応元年(1865)ライデンを出発し、パリを経て海路帰国するまでの記述。表紙および欄外の記載は森鴎外の書き込みという。末尾に「明治一七年二月日記了」とある(明治27年の誤記)。森鴎外『西周伝』に利用された資料。

明治以降の学問への影響

オランダ留学生のうち、留学中の学習をもとにして、その著作によって明治以後の社会科学の導入に大きな影響を与えていた人たちがいた。

西周と津田真道の二人は、ライデン大学において経済学、政治学を教えていたフィッセリング(Simon Vissering, 1818-1888)に、次の五科目を学んでいる。性法之学(Natuurregt 自然法)、万国公法之学(Volkenregt 国際公法)、国法之学(Staatsregt 国法学)、制産之学(Staatshuishoudkunde 経済学)、政表之学(Statistiek 統計学)。これらを「五科」と称し、帰国後は、その講義を翻訳、刊行している。

また、内田正雄も留学の成果を用いた図書を編訳している。

性法万国公法国法制産学政表口訣

畢洒林述 西周訳 写 1枚 <西周関係文書31a>

津田、西両名の「筆記」とある。オランダ留学時のフィッセリングによる五科学習の際の授業の道筋および講義の根本方針を示す。

記五科授業之略

西周 自筆 2枚 <西周関係文書31>

帰国後、留学中の五科学習の顛末を記す。西周によって翻訳刊行される予定とされていたフィッセリングの講義「性法説約」の巻首として起草したもので、「性法説約」が五科講義の翻訳の最初にあたるので総序として作成した。

万国公法

畢洒林著 西周助(周)訳 慶応4(1868)刊 4冊 <西周関係文書186>

  • 「万国公法」

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フィッセリングによる国際公法講義を西周が翻訳したもの。当時刊行されていた恵頓撰(Henry Wheaton)、丁韙良(在清宣教師William Martin)訳『万国公法』慶応元年(1865)刊とともに国際公法を紹介した書物の先駆け。木戸孝允旧蔵書。

泰西国法論 巻之一 草稿

シモン・ヒセリンク[原著] 津田真道訳 自筆 1冊 <津田真道関係文書5>

フィッセリングによる国法論の講義筆記の翻訳草稿。加筆訂正が多くみられる。浄書本は幕府に献上され、慶応4年(1868)に刊行された。その後、明治初期に民間からも出版され、広く読まれた。そのほかに、津田は政表之学にもとづき『表紀提綱』(太政官政表課、明治7年刊)も翻訳刊行している。

輿地誌略

内田正雄編訳 〔東京〕 文部省 明治4-13(1871-80)刊 12冊 <YDM22353>

英書のほか、カラームルスの蘭書等を利用して編訳。挿絵も豊富であり、オランダ留学中に集めたものがもとになっているという。明治3年(1870)に大学南校で刊行、その後、広く読まれ、諸版が刊行されている。第11冊-第12冊は内田の死後に西村茂樹が編集を引き継いだ。