国立国会図書館憲政資料室 日記の世界

もう1人の女子留学生、内田政

コラム

明治時代の女子留学生では、津田梅子や山川(大山)捨松が有名です。ここで紹介する内田政は、私費留学生としてアメリカに渡り、帰国後は外交官の妻となった女性です。彼女は津田や大山のように有名ではありませんが、「明治の活躍する女性」の1人だったと言えます。

内田政は明治4(1871)年、吉野(奈良県川上村)の山林王・土倉庄三郎の次女として生まれました。教育熱心な両親のもとに育った政は、小さいときから四書五経等の漢書を習い、その後は姉妹そろって同志社女学校に通学、卒業後は土手町(京都市)の女学校で裁縫や料理を習う傍ら、同志社で女子教育に携わる女性宣教師ミス・デントンの私塾であるデントン塾で英語を勉強しました。ここで政はアメリカ留学の誘いを受け、明治23(1890)年5月13日に渡米の決意を家族に伝えています。

明治23年5月12日・13日条 「日記」【内田康哉・政関係文書57】の画像
デジタルコレクションで
閲覧する
…其夜父上・母上を始め兄君方に物語んと機を伺ふの際、幸に父上の御言を受け事条(情)を告るの緒を得て請ふに、暫時数ヶ年米国に遊学せしめられんことを。父君寛大にも此の請求を入れらるゝ色あり。然りと雖も母上・兄上方の賛成あるや否や、翌十三日を待んと各別れて床に付き、明日幸に父上・母上・兄上幷に親戚の許を受け、渡米を決す。

明治23年5月12日・13日条 「日記」【内田康哉・政関係文書57】

政はこの時数え年20歳でした。留学は父の土倉庄三郎が物心両面で支援し、同志社を設立した新島家とも親交のあるモリス夫妻の帰国に同行する形で行われるため、3週間で慌ただしく準備しました。アメリカへの出航当日、単身船に乗り込んだ政はその心境を日記に綴っています。

明治23年6月1日条 「日記」【内田康哉・政関係文書57】の画像
デジタルコレクションで
閲覧する
父上、母上、原の兄姉君、デントン師の誰彼忝くも不肖女を見送り玉ひし、相別るる時の胸中こそ誰か推し量る可し。無惨なる乎哉、無情なる乎哉、小蒸汽船は妾等の意中を知らざるものの如く、急くが如く、黒烟を空天に吹き上げつつ岡を指して進みけり。

明治23年6月1日条 「日記」【内田康哉・政関係文書57】

長い航海後、サンフランシスコに入港していよいよアメリカでの第一歩を踏み出す時、日記には上陸が大変だったことが書かれています。

明治23年6月15日条 「日記」【内田康哉・政関係文書57】の画像
デジタルコレクションで
閲覧する
港に達せしも、既に夕暮なればとて余儀なく明日を待て上陸せざる可らず。日曜十五日、税官の吏人等事々しく、又面倒にも一々荷物をしらべ、大混雑後、時を歴てオクシデンタル宿に投す。

明治23年6月15日条 「日記」【内田康哉・政関係文書57】

アメリカ留学は7年に及びました。費用も1年間でおよそ千円かかったと『評伝土倉庄三郎』に記されています。山本博文『明治の金勘定』によれば、明治31(1898)年の大学卒銀行員初任給が35円くらいだったので、留学費用は相当だったことがわかります。留学時代の政はブリンマー大学等で英語のほか、ドイツ語、ラテン語、フランス語などを習得しました。後に、夫である外交官内田康哉より英語が流暢だったといわれています。留学中の日記は、ほとんど英語で書かれています。留学最後の日記には「Left U.S.A. starting from San Francisco」(1897年8月5日条)と記されました。

実家に戻った政は、明治32(1899)年4月18日、内田と結婚します。5月には早速イギリス公使館での園遊会に行き、外交官夫人として華々しくデビューしますが、実家の父からは婚家への仕え方の忠告をもらったりしています(明治31(1898)年3月20日「父上の最もかたじけなき御忠告」)。外交官として内田が順調な道を歩んでいく中で、政も夫人として任地に同行し、夫の外交活動を側面から支えていきます。

残念なことに政の日記は明治34(1901)年の清国赴任までで終わっています。10月23日に東京を離れて清国に旅立つ日、実家に立ち寄り神戸から乗船しました。

明治34年10月23日条 「日記」【内田康哉・政関係文書57】の画像
デジタルコレクションで
閲覧する
Left Tokyo in the evening, changed car at Nagoya, went to Otaki next day by 5, 30 P.M. … Oct.29th. Left Kobe by Tategami Maru.

明治34年10月23日条 「日記」【内田康哉・政関係文書57】

11月9日朝鮮経由で天津に到着して、翌日北京に入りました。15日からは「Began Chinese lesson in the morning」と中国語のレッスンを開始しています。日記には清国での生活は綴られていませんが、政は当時の権力者であった西太后にも気に入られました。その様子は西太后のお付きだった徳齢が“Two years in the Forbidden City” (紫禁城の二年)に記しています。

…To tell the truth, I like Madame Uchida (Wife of the Japanese Minister to Peking) very much. She is always very nice and doesn’t ask any silly questions. Of course the Japanese are very much like ourselves, not at all forward.

徳齢(Der Ling) “Two years in the Forbidden City”(紫禁城の二年)【915.1-T272t】

もし政が清国での様子を日記につけていたら、当時の人間関係や後宮事情などもわかったかもしれません。

日記以外には、残されている写真から外交官夫人としての政の姿をうかがうことができます。

内田夫妻と館員3名との写真
「写真(内田夫妻と館員との集合写真(内田夫妻と外3名))」【内田康哉・政関係文書85】
異国の汽車でくつろぐ内田夫妻の写真
「写真(異国の汽車でくつろぐ内田夫妻)」【内田康哉・政関係文書86】
少女期の内田政の写真
「写真(政の少女期ヵ) 」【内田康哉・政関係文書87】

参考文献

  • 小林道彦, 高橋勝浩, 奈良岡聰智, 西田敏宏, 森靖夫編『内田康哉関係資料集成 第1巻』(資料編1)柏書房, 2012【GK193-L6】
  • 土倉祥子『評伝土倉庄三郎』朝日テレビニュース社出版局, 1966【289.1-D952Dh】
  • 徳齢(Der Ling)『Two years in The Forbidden city, by The Princess Der Ling, first lady in waiting to The Empress Dowager, illustrated from photographs』Moffat, Yard and company, 1911【915.1-T272t】
  • 本井康博「土倉家の人たち」『同志社談叢』25号, 2005.3【Z7-1253】
  • 「内田伯爵夫人政子刀自の面影」『西海医報』229号, 1967.7.10【Z19-306】