清水 唯一朗(慶應義塾大学総合政策学部教授)
政治はときに「政事」と書かれる。そこにはしばしば「マツリゴト」というルビが振られる。現代の政治からは想像もつきにくいが、子どものころに読んだ日本歴史のマンガを思い出せば、ああ、と納得がいくだろう。
時代が下り、「マツリゴト」は神に祈るものではなく国民が自ら取り組むものとなった。なかでも最たる「マツリ」は、自分たちの代表を選ぶ選挙である(杉本『選挙の民俗誌』)。誰かを選ぶこと、誰かから選ばれること、さらには多数を占めて「マツリゴト」の中心に立つこと、そのいずれもが日本にとって初めての試みであった。家伝の有職故実を残す日記とも異なり、個人のありようをまざまざと記す近代の日記において、これほど大きなイベントはない、はずである。
しかし、全国各地に残る政治家の日記を渉猟してみても、血沸き肉躍るような選挙の記録に出会うことはなかなかない。考えてみれば、選挙は候補者にとってその政治生命を左右する決戦である。早起きして、挨拶にまわり、事務所に戻り、来客と交ればもう夜更けだ。心身ともにクタクタで、日記をつける余裕などない、はずだろう。
それでも、上山『陣笠代議士の研究』が取り上げた陣笠代議士・山宮藤吉のように、日記をつけ続けたタフな政治家たちもいる。選挙を仕切るものもいれば、周辺から関わるものもいる。選挙の様相は実にカラフルなのだ。ここでは、国立国会図書館所蔵の日記を中心に、そこから垣間見える日本の選挙の多様なすがたを、明治、大正、昭和、戦後と時代を追いながら見て行こう。
近代日本で初めての選挙といえば、誰しもが明治23(1890)年の第1回衆議院議員総選挙を思い浮かべることだろう。だが、少しひねってみよう。
実はそれ以前にも選挙があった。新政府が発足して1年後、戊辰戦争も終結が見えた明治2年5月13日(1869年6月22日)、政府内で幹部人事を決める選挙、官吏公選が行われた。版籍奉還を前に、選挙によって新政府の正統性を高めること、互選によって政府の一体性を高めることが目的とされた。推し進めたのは大久保利通と岩倉具視である。
選挙権は三等官以上に等しく与えられたが、被選挙権は知事と内廷職知事の四職は公卿諸侯から、参与と副知事は有権者全員からと区別された(以下、選挙のようすについては「公選法ノ詔書」『大久保利通文書』3による)。投票は太政官官舎において、用紙に氏名を記して箱に投じる入札(いれふだ)によって行われた。
開票は明治天皇が出御して厳粛に行われた。開票の結果は以下のとおりである。
大久保、木戸、副島ら版籍奉還を推進する人材が選ばれ、改革の方針は是認された。各省の実権を握る副知官事には、民部に廣澤眞臣、軍務に大村益次郎、刑法に佐々木高行、会計に大隈重信、外務に寺島宗則と開明派の志士が並んでいる(「公撰入札姓名」『岩倉具視関係文書』2)。選挙の真の目的は、諸侯や公卿など家柄によって高位に留まるものを追い落とし、能力の高い人材に入れ替えることであった。多数派工作の痕跡は彼らのあいだで交わされた書簡から窺い知ることができる。選挙という手続きを用いた事実上の政変であった。
それにも関わらず、大久保の日記は「今日知官事副知官事入札有之候」と淡々と事実を記すに留まる(『大久保利通日記』明治2年5月14日条)。着実に準備をする大久保らしいといえば、らしいといえるだろうか。
官吏公選から20年、帝国議会が開設され、選挙の時代がはじまる。では、いったい初期の国政選挙はどのようなものだったのだろうか。第3回総選挙(明治27(1894)年3月1日(木)実施)のようすを、自由党の遊説部隊として名を馳せた龍野周一郎の日記から見てみよう。
前年末の衆議院解散を受けて、彼らは元旦から逐鹿場に走り出していった。龍野は元日の日記に「古、元日を三元の日と曰ふ。是れ歳の元、時の元、日の元たるを以て也。余は此の日を以て二七年に於ける政治的運動の元となす」と決意を記し、早朝に皇居前で万歳を唱えると上野発の一番汽車で地元・長野県小県郡に向かった。
三が日が明けると、龍野は連日郡内をつぶさに回っていく。昼は集落の中心となる寺で政友とともに演説に臨んで3時間に及ぶ長広舌を振るい、夜はそのまま懇親会になだれ込んで気焔を上げる。当該期の選挙期間中における饗応は飲み食い放題であったが(久冨論文)、龍野はその相手を実に2週間にわたって続けるという強行軍をこなしている。演説会には敵対する改進党系の壮士たちがしばしば乗り込んで妨害を図ったともある。なんともすさまじい。
この間、龍野は演説の会場、聴衆数、登壇者とその論題、懇親会の参加者数に加え、入会者数と斡旋者の氏名を事細かに記録している。過酷な日程をこなしながら絶え間なく続く記録は、この情報が彼にとっていかに重要なものであるかを示している。この時代、有権者は人口の1%強とごく限られており、ときに支部は支持を約束した有権者に承諾書の提出を求めていた。第6回総選挙までは開票の際に投票者の氏名と投票先が読み上げられたから、違約はすぐに明らかになる(季武『選挙違反の歴史』)。龍野が熱心に書き留めたのは、そのまま票読みと党勢拡張に欠かせない支持者名簿となるものであった。
ひととおり演説会が終わると、候補者選びがはじまる。順序が違うのでは、と思われるかもしれない。まだ議会が開設されて日が浅いこの頃は、政党組織も自由民権運動の延長線上にあり、地域ごとの団体が力を持っていた。龍野の地元である小県郡は、お隣の埴科郡とあわせて長野県第3区を形成しており、小県自由党内はもちろん、同地の埴科自由党との調整が必要であった。先ほどの票読みの意味もわかってくるだろう。
19日、慰労会を兼ねるかたちで候補者選定会が小県郡の大輪寺で開かれ、両郡から実に260名あまりの党員が参集した。席上、埴科自由党の領袖で元代議士の堀内賢郎(第1回総選挙の全国最年少当選者)が小県自由党の幹部で前代議士の佐藤八郎右衛門を推挙し、満場一致で佐藤の推薦が決まった。
実際には、この結果は、選定会に先んじて小県自由党幹部が埴科自由党を訪ねるかたちで交渉会を行って内定していたものであった。長野県第3区自由派では、第1回は埴科の堀内、第2・3回は小県の佐藤、こののちの第4回は堀内が再度推され、第5・6回は龍野が当選しており、両郡自由党のあいだでのほぼ交互に候補を出し合う了解があったことが確認できる。この了解のもと、長野県第3区は自由党が議席を守り抜いた。
こうした強固な地盤は抜きがたく、攻める側からすれば相当の手立てが必要となる。そのひとつが落下傘候補であることは今も昔も変わらない。実は、この選挙で龍野自身が他県から強く出馬を要請されていた。場所は三重県第5区。立憲改進党の大立物・尾崎行雄の選挙区である。ここは例外的な2人区であり、前回選挙までは中立系と尾崎が1議席を分け合ってきた。今回、中立系の前職が出馬を見送ったことから、同地の自由派は議席確保に向けて有力候補の誘致に奔走していた。そこで白羽の矢が立ったのが龍野であり、とりわけ彼を可愛がっていた板垣退助が熱心に出馬を促していた。
21日に東京に戻り、翌日、党本部に出た龍野は、板垣以下の幹部連に地元同志の反対を理由に固辞を告げ、24日付で先方に断りの手紙を送っている。結果、同区からは鳥羽出身の門野幾之進、奥野市次郎が自由党候補として出馬したが、地の利なく敗れた。同地では尾崎が再選したことに加え、同じ改進党の森本確也が当選し、尾崎の26回連続当選を支える基盤が確立した。
話は長野県第3区に戻る。実は埴科側の領袖である堀内は詳細な日記をつけていたことが、丸山『長野県政党史』に引用された記事から知られている。筆者は大学院生時代にこれを探して堀内家、さらには丸山家にも伺ったが、ついにそれに出会うことはできなかった(清水論文『長野県近代民衆史の諸問題』所収)。史料が残る幸運、残らない不幸を痛感させられた。
明治維新から50年、大正デモクラシーを経て政党政治が定着したものの、議院内閣制を取らない近代日本では、選挙の結果として政権交代が行われたことはなかった。とはいえ戦前の政党内閣を率いた総理総裁にとって、解散総選挙は、政権の延命か少数与党の状況を打開するための最重要戦略であった。
前者の好例は、原敬・立憲政友会内閣によって大正9(1920)年5月10日(月)に行われた第14回総選挙であろう。原は仕事を終えたあとの自宅書斎で、もしくは週末を過ごす腰越の別荘で次なる戦略を練る方途として日記を丹念に記していた。
このとき、加藤高明率いる憲政会、犬養毅率いる立憲国民党は、そろって男子普通選挙の実現を求めていた。原は一貫してこれを時期尚早とする姿勢を貫き、納税要件を10円から3円に下げる改正に留めた。しかし、普選を求める世論は強く、このまま論戦を続けて衆議院の任期満了が近づいてくれば、政府与党は徐々に打つ手を失い、不利な状況に追い込まれる(玉井『原敬と立憲政友会』)。2月26日、原は機先を制して解散に踏み切った。
野党の準備が不十分なうちに選挙を実施したい腹積もりであったのだろう。衆議院議員選挙法の規程では選挙日は30日以上前に公示となっていたから、最短であれば3月末の選挙が可能であった。しかし、いざ蓋を開けてみると新選挙法による選挙人名簿がまだ調製されていなかった。原らしからぬ失態である。急ぎ枢密院に勅令の発布を依頼し、3月5日に選挙人名簿の作成期間に関する勅令が公布された(「大正九年ニ於ケル衆議院議員總選擧ニ必要ナル選擧人名簿調製期日及期間ヲ定ムル件」)。これにより、選挙人名簿の確定は5月4日、選挙は5月10日に実施となった。
議院内閣制ではないなかで「初の本格的」政党内閣とされた原内閣である。選挙にあたって、原は幹部会を官邸ではなく芝の三緑亭で行うなど、公務と党務の切り分けに腐心した。大臣が応援演説に向かって、政務を軽視していると批判されることも折り込み済みであった。党の近畿大会のため大阪に出張する際には葉山御用邸に天皇を訪ねて許可を得た上で、4月15日の夜に東京を発ち、17日夜には帰京している。
10日に選挙が実施され、都市部から開票が進むと、当初は政友会不利との情報が流れた。原はこれに対し「市は余の胸算に反せし者は左まで之なし、郡部開票せば二百五十を下ることなかるべし」と述べている。原は警察からの情勢報告を受けなかったとされるが、各支部から上がってくる情報で勝利を確信していたのだろう。
かくして原・政友会は全464議席に対して278名、第二党の憲政会に169名の差をつける圧勝を収めた。しかし、これは政友会への支持を意味していなかったようだ。自らも「衆議院に出てみたい様な気がする」というある風変わりな大学講師は「政友会が必しも秀でて居るのでもないし、又原さんがそれだけ国民の信頼を得て居るわけではないけれども、国民党や憲政会があまりに無力な為めにまだ政友会の方がよい位のことらしい」との観察を残している 。実はこの総選挙はいわゆる「スペインかぜ」の第2波が広がるなかで行われており、危機と隣り合わせの状況のなかで、人々は大きな変化を好まず、当座の安定を求めたのかもしれない。
原は勝って兜の緒を締める思いだっただろう。しかし、野党に大きく水を空ける大勢力となった政友会は弛緩して不祥事が多発する。強大な政権に対する国民の批判は強まっていった。彼が東京駅で暗殺されるのはそれから1年半後のことである。
後者の好例は、浜口雄幸・立憲民政党内閣が昭和5(1930)年2月20日(木)に実施した第17回総選挙である。組閣から5か月後、浜口内閣は民政党172に対し、政友会239、その他36という少数与党で第57回帝国議会に臨んだ。衆議院議長はもちろん、常任委員長も政友会に独占されており、これを乗り切るには解散しかない。大晦日、浜口は日記に「特に政界は多少の不安を孕んて越年す」と、期待と不安が入り混じった展望を記している。夜、前日に行われた大阪府第4区の再選挙で民政党候補が勝利したことが加筆されている。この朗報は、決戦の年を迎える彼の気持ちを強くさせたことだろう。
年が明けて1月11日、金解禁が断行される。前日の株式暴落を「取るに足らず」と言って見せた浜口は、解禁当日、「万事平穏順調些の動揺なし安心。市場平穏、株式しつかり」と意を強くし、食堂でシャンペンを開けて祝った。株価の上昇を確認し、元老・西園寺公望にも相談を終えた浜口は、1月19日に葉山御用邸に天皇を訪ねて解散の詔勅を奏請し、裁可を得た。21日、犬養政友会総裁への答弁を終えたところで衆議院は解散された。原のときとは異なり、選挙期間は最短の1か月である。
通常議会会期中の解散、総選挙である。首相をはじめ閣僚は実行予算を編成しながら選挙にあたることとなる。そうしたなかで浜口は与党候補者の乱立に頭を悩ませている。中選挙区での候補者調整は難しい。「選挙の神様」こと安達謙蔵内相、内務省出身の江木翼鉄相との3名で協議が重ねられた。
2月2日、浜口はようやく自分の選挙について、民政党高知支部長に選挙事務長を依頼している。5日には民政党の公認候補が304名と決まった。大臣は一斉に遊説に繰り出し、閣議は開店休業。10日の定例閣議は首相のほかは貴族院議員である外相と法相だけという閑散さであった。これも原のときとはずいぶん異なっており、政党政治の定着を感じさせる。
浜口自身も11日に紀元節の行事を終えると、翌12日には「総選挙に対する総裁として殆んと一切の準備を了し」、日比谷公会堂を皮切りに東海道線を西に下り遊説に入る。沿線では横浜、沼津、静岡、浜松、名古屋、岐阜、大垣、大津の各駅で党員や知事の歓迎を受けた。第12回総選挙で大隈重信が発明した「車窓演説」である。京都、神戸とまわって地元・高知に行くかと思いきや、丹波、大阪、名古屋を経て17日に帰京した。途中、金融恐慌で大失敗をした大蔵省の後輩・田昌候補の応援に駆け付けたことは、なんとも浜口らしい温かみを感じさせる。
帰京後は連日、大塚惟精警保局長が訪問している。選挙の情勢報告を受けていたのであろう。20日の選挙当日、浜口は「此日天気改正日本晴ノ無風状態」と記した。自身の思いを映したように見えたのだろう。選挙結果は総議席466に対して民政党273、政友会174。絶対過半数を得て浜口内閣は内に産業合理化、選挙革正、外にロンドン海軍軍縮条約の締結と邁進していく。
多忙の極みであったのだろう。11月12、13日の日記は当日の記載がない。そして翌14日、浜口は東京駅頭で凶弾に遭う。「九死に一生を得、之れより明年一月二十一日退院迄六十九日の病院生活をなす、仍て其間記事を欠ぐ」と記された字に、これまでの力強さはなかった。
選挙はマツリだ。多くの人々が関わる。候補者、運動員をはじめ、饗応のご馳走にあずかろうとするものもある。演説会に参じる若者や婦人もある。選挙を運営する官僚や第一線の吏員もある(清水『政党と官僚の近代』)。
最も盛り上がるのは、メディアの面々かもしれない。朝日新聞の専務取締役を務めていた下村宏の日記は、第二次護憲運動の最中で行われた第15回総選挙(大正13(1924)年5月10日(土)実施)の際のメディアの盛り上がりをよく残している。
1月、下村は迷走のなかから発足した清浦奎吾内閣を揶揄しながらも、震災復興に向けた新聞社のイベントに邁進していた。22日の部長会では皇太子ご成婚グラビアやフランス絵画展主催のことを談じ、午後の相談役会では高校野球大会の会場(この年、甲子園球場が完成する)や自動車双六の企画などを話し合っていた。
月末に衆議院が突如として解散されると、記述は急に慌ただしくなる。翌2月1日 の幹部会では、社の主張として「上院改正 元老もとより」「普選即行」「与党を第一党とせぬこと」「応援演説等は幹事の了解を得ること」「如上の主義に反する広告はせぬこと」が論じられた。日本を代表する新聞が、政権打破を決めて進み始めたのだ。下村の現政府反対の姿勢も明確であり、逓信省の後輩である米田奈良吉(現職の逓信次官。与党・政友本党系中立候補として出馬)の応援依頼に対しては「清浦内閣擁護はこまる」と明確に断っている。
この後の日記は、選挙報道に関する打ち合わせと高校野球の準備が並行して進むという奇態を見せる。それも選挙が近づくにつれて講演旅行を兼ねた応援演説が主体となる。3月末には大阪から和歌山を回り、4月に入ると豊橋、四日市、津、山田、名古屋と同社主催の時局講演会で回った。下村は「普選の新意義」などを論じ、観客は会場の外まで溢れたという。行きつく暇もなく中旬には仙台、岩手、秋田、新庄、一関と東北を回り、ここでは護憲三派候補の応援演説もこなしている。
月末の日記には「応援依頼 永井柳太郎、山本条太郎、若宮貞夫、河野恒吉、井上雅二」とある。いずれも護憲三派、もしくは中立候補である。なかでも下村が入れ込んだのは河野恒吉であった。彼は陸軍少将であり、予備役に編入されたあとは大阪朝日で記者を務めていた。そうした関係もあったのだろう、5月1日の日記には「河野より2000送金電報来る」とある。下村は資金的な援助も行っていたようだ。同日夜には西下し、河野が出馬していた山口県第8区で3日間にわたって応援演説に奔走している。同区では政友本党、憲政会の2候補に河野が加わる三つ巴の戦いであった。下村もその熱戦のなかで奮闘し、最終日には「応援演説のアンコール」まで受けたようだ。
開票結果が出そろった5月13日、下村は戦果を振り返る。応援演説に参じた候補の名前が輝かしく並ぶなか、河野の名前にのみ印が付く。落選であった。その後、日記には「河野恒吉氏に400送る」とある。翌週から下村らは選挙結果を以って清浦内閣を退陣させるべく、再始動する。政変が収まり、日記が高校野球一色になるにはまだひと月を要した。
ここのところ、戦後の資料も多数公開されるようになり、そのなかには日記もいくつか見られる。日本国憲法のもとで行われる戦後の選挙はやはり戦前とは違うのだろうか。まずは昭和27(1952)年10月1日(水)に行われた第25回総選挙を石井光次郎の日記から見てみよう。石井は台湾総督府などで活躍した元官僚で朝日新聞に転じた、下村と似た経歴を持つ。戦後すぐの第22回総選挙で当選し、1947年に第一次吉田茂内閣で商工相として入閣するが、まもなく公職追放に遭っていた。
この選挙は石井にとって追放解除後初のものであり、再起をかける戦いであった。いわゆる抜き打ち解散とされる選挙であるが、石井はすでに8月6日の段階で、吉田が解散総選挙に意欲を示しているという情報を朝日時代の旧友・緒方竹虎から得ている。ただそれは「アメリカの選挙がすむ(ママ)でから」という条件付きであり、大統領選挙終了後、11月か12月という目算であった。
14日、林譲治(自由党幹事長)を訪問すると、解散は9月末が適当と思うという。首相は大統領選挙後というが、立太子礼(11月10日)との兼ね合いも考慮しなければならない。そろそろと踏んだのだろうか、石井は18日に西下し、大阪、博多を経て23日に地元・福岡県第3区(5人区)の中心である大牟田に入り、三池、浮羽、八女、三井、小郡と選挙区内をつぶさに回った。日記には出会った有力者の人名や住所などが詳細に記されており、60年前の龍野日記を思い起こさせる。
26日、自由党本部から来月10~20日頃解散との情報がもたらされた。そうなれば投票日まであと2ヶ月。翌日、石井は世話人たちと選挙対策を練って見通しを立てた。ところが二日後の28日、突如として衆議院が解散される。予定は1か月前倒しだ。幹部を集めて打ち合わせをやりなおし、選挙事務所を決めた。
日記の表題も9月5日の公示日をもって「第3回選挙手記」と改められた。出陣の第一声は7日、出生地である久留米で上げた。
中選挙区は広い。翌日からトラックに乗って選挙運動がはじまる。まだ夏の終わりである。11日には浮羽郡で早朝から24回の演説を行ったが、あまりの暑さで手の甲に水膨れができた。
戦前との大きな違いは、トラックでの演説に加え、NHKで吹き込んだ政見が放送されていること、演説会が寺院ではなく公会堂で行われていることだろうか。ブリヂストンなど企業単位の応援も見られる。台湾からの引揚者も応援に駆け付けているのは石井ならではといえよう。
結果、石井は無事に第4位で当選を果たした。面白いことに、彼は投票の翌日に行われた開票結果を久留米ではなく大阪で聞いている。投票日の夜には博多を発ち、3日には東京に到着し、すぐに鳩山一郎、石橋正二郎らと会っている。彼の関心は自分の当落よりも、選挙後の政権の帰趨にあったのだろう。
保守合同までは、選挙も政治も混乱のさなかにあった。のちに厚生相、大蔵相を務める坊秀男はこの選挙が初陣であったが、所属政党を決められずにいた。重光葵(改進党総裁)に会うよう芦田均から諭されると「こいつはどうか。ちょっと困ったことだが、やはりこのガムシャラも必要なことではなかろうか」と心を動かされつつも、自由党の野田卯一建設相が地元・和歌山を視察すると聞くと、周到にも県有志との会見を手配している。翌日には「政党所属問題サラリと行かぬままに極めてうっとうしい」とぼやく。結局、坊は改進党から出馬し、無事当選を果たした。
保守合同が成立し、自民党の一党優位体制が安定すると、選挙も大きく様変わりし、秩序だっていく。昭和51(1976)年12月5日(日)に行われた第34回総選挙の記録が細田吉蔵(自由民主党)の日記に残っている。
すでに当選5回を数え、行政管理庁長官も務めていた細田の選挙戦は実に整然としている。党選挙対策委員会幹部として公認証書と公認料の受け渡しを行ったあと、地元の選挙事務所を開き、連日、朝から選挙区である島根県全域を地区ごとに丹念に回り、各地の中心部で立会演説会を行って一日を終えている。同じく自民党から出馬している竹下登、櫻内義雄の地盤にはあまり足を踏み入れず、棲み分けをしている。中選挙区時代の自民党選挙の完成形を見るようだ。
今日の選挙はどうであろうか。日記をつけている政治家がどれほどいるかわからないが、さぞ慌ただしいものになっていることだろう。議会開設140年、150年時にもこの企画があるとすれば、ぜひ戦後から平成、令和の選挙を垣間見てみたいものだ。