国立国会図書館憲政資料室 日記の世界

戦闘機「衆議院号」と大木操
――回想録の原稿から

日記で読む政治史

官田 光史(関西大学文学部准教授)

1.「衆議院号」の献納式

昭和18(1943)年10月28日の12時30分から、衆議院予算委員室で戦闘機「衆議院号」の献納式が開催された。この日は第83回帝国議会の会期終了日であった。式には百数十名の議員が出席し、東条英機陸相(首相)、嶋田繁太郎海相も臨席した。まず岡田忠彦議長が挨拶し、陸相と海相に目録を贈呈した。両相からの謝辞ののち、議長の発声で陸海両軍の万歳三唱が行われている。閉式は12時45分であった(『読売報知』10月28日付夕刊、〔図1〕)。この日、議場で働いていた給仕のなかに偶然にも海軍甲種飛行予科練習生に合格した者が1名、乙種飛行予科練習生の第一次試験に合格した者が3名いた。彼らは岡田と衆議院書記官長の大木操の激励を受けて、「はい頑張ります、衆議院号に乗れたらうれしいと思ひます」と「元気」に答えている(『毎日新聞』第24180号同日付夕刊【Z81-6】)。

読売報知第23994号より目録書の贈呈式の写真
〔図1〕「目録書の贈呈式」
『読売報知』第23994号 昭和18年10月28日付夕刊 第2面「陸海軍へ戦闘機「衆議院号」」【Z81-16】

昭和6(1931)年の満州事変以降、軍用機献納運動が全国で展開された。献納機は陸軍では「愛国号」、海軍では「報国号」と呼ばれ、献納者は個人、地域、企業、学校などさまざまであった。愛国第1・2号は昭和7(1932)年1月に、報国第1号は同年7月にそれぞれ献納された。その後、太平洋戦争で敗戦に至るまでに愛国号は7000機を越え、報国号は6000機に迫っていたようである。

衆議院の場合は、昭和18(1943)年6月12日の議院協議会で岡田議長の発議により、議員の醵出金をもって飛行機1機ずつを陸海軍に献納することが了承された(『帝国議会衆議院公報』同日付)。『帝国議会衆議院公報』(以下『衆議院公報』)では、10月14・21・22日付の3回にわたり、議長から議員に対して衆議院の庶務課会計係に醵金を申し込むよう呼びかけが行われている。14日付の時点で、すでに申込みは済んでいるものの、醵出が済んでいない議員に対して払込みが促されている。したがって、6月の議院協議会後には何らかの形で議員に周知されていたと考えてよい。さらに、10月27日付の『衆議院公報』は、28日に航空機献納式を開催するという議院協議会の決定を受けて、議員に案内を行っている。こうして冒頭の献納式が開催されたわけだが、式では目録が贈呈されたにとどまっていた。実際には、11月8日に大木が陸軍省と海軍省をそれぞれ訪問して「衆議院号」の製作資金を献納したのであった(『衆議院公報』11月11日付)。〔図2〕は「衆議院号」のうち「報国号」とされる写真である。この写真は、国立国会図書館憲政資料室所蔵「大木操関係文書」(以下「大木文書」)に含まれている。「大木文書」のなかに「愛国号」とされる写真は残されていない。

衆議院献納機の飛行写真
〔図2〕「衆議院献納機写真」【大木操関係文書173】
右下には「報国第一七九四号(衆議院号)(艦上戦闘機)海軍省」とある。

2.大木の回想録

それでは、なぜ衆議院は戦闘機を昭和18(1943)年の秋に献納したのだろうか。献納の経緯は、昭和55(1980)年に出版された大木操(1891-1981)の回想録『激動の衆議院秘話』に詳しい。大木は東京生まれ。東京帝国大学法科卒業後、会計検査院に入り、大正12(1923)年に衆議院に転じた。議事課長などを経て昭和13(1938)年に衆議院書記官長。戦後、貴族院議員、東京都副知事を歴任している(【大木操関係文書179】)。大木の回想録は全部で89の章から成る。そのうち、「衆議院に入るまでの話」が独立した1章であり、内幸町に仮議事堂があった「内幸町時代」(大正12年9月~昭和11年11月)が38章、議事堂が永田町に完成してから大木が退官するまでの「永田町時代」(昭和11年12月~同20年10月)が同じく38章、「貴族院時代」(昭和20年11月~同22年5月)が12章である(時期区分は同書による)。この構成からもうかがえるように、大木の回想録は議会官僚としての大木のキャリアを網羅しており、戦前・戦時の議会史を理解するうえで不可欠の文献となっている。

それによると、昭和18(1943)年3月18日、岡田衆議院議長、松平頼寿(まつだいらよりなが)貴族院議長らが霞ヶ浦(茨城県)の海軍航空隊を視察した。この視察には大木も随行している。その際、練習連合航空総隊司令官の戸塚道太郎海軍中将から「昼夜を分かたぬ猛訓練の実情を詳しく聴いた」。話が「これまでに苛烈な戦場に送り出した多数の若鷲の身上」に及ぶと、戸塚は傍らにあった卒業士官の名簿を繰りながら「「この子はどこそこでこうしてやられた!この子もあすこで無残に散った!」と、まるでわが愛児を慈しむかのように写真を一枚一枚丁寧に撫でながら、切々とそれぞれの最期を語」った。そして「一行も全く感にうたれ涙なしには聴くことができない粛然たる場面」となったのだった。その後、岡田らは航空隊の訓練を見学、さらには土浦まで出向いて少年航空兵の訓練も視察している。

翌19日には議院協議会が開かれ、岡田議長から視察の報告が行われた。そこで岡田は「銃後国民を代表して飛行機不足に対し応分の援助をしようとの議題を持ち出し各派の意向取りまとめ方を依頼した」のであった。こうして5月26日の議院協議会は「戦意昂揚のため、陸海軍に対して「衆議院号」と名付けた戦闘機〔を〕一機ずつ献納することを全会一致で可決」した(以下、史料中の〔 〕は引用時の注記)。議院協議会では6月12日に正式な了承が行われているので、5月26日には方向性が決められたということだろうか。具体的な方法としては、代議士全員で1口250円かそれ以上を醵出することになった。250円は当時の議員歳費3000円の1ヵ月分に相当する。その意味で、代議士としては「大奮発」であったが、10月の83議会までには592口(14万8000円)が集まったのだった。83議会召集日の議員数は453名(議員定数は466名)であったから、2口以上の応募者が一定数いたことになる。

3.原稿のなかの日記

ところで、「大木文書」には回想録の原稿が残されている。献納機に関する原稿は、添付の資料から昭和53(1978)年ごろに執筆されたものと思われる。この原稿のなかで興味深いのは、日記の抜粋が記されていることである。大木は「手帳」(昭和7年から同22年まで)【大木操関係文書187〜202】、「大木書記官長日誌」(昭和15年から同20年まで)【大木操関係文書204-1〜11】、「衆議院手帖日記写」(昭和10年から同22年まで)【大木操関係文書203-1〜3】などの日記・手帳類を残している。そのうち、昭和19(1944)年6月15日から同20(1945)年10月5日の日記は昭和44(1969)年に『大木日記―終戦時の帝国議会―』として出版されている。

献納機に関連する日記の抜粋〔図3〕は、原稿の本文以上に几帳面な文字によって綴られている。

『激闘の衆議院秘話』原稿及資料の画像
〔図3〕「『激闘の衆議院秘話』原稿及資料他 戦闘機衆議院号を陸海軍に献納す 」【大木操関係文書213-73】

昭和十八年三月十八日(木) 午前九時上野駅発、武井〔大助〕海軍経理局長ノ案内ニテ両院議長、副議長〔佐佐木行忠貴族院副議長、内ヶ崎作三郎衆議院副議長〕、書記官長一行霞ヶ浦海軍航空隊見学。戸塚〔道太郎〕司令官ノ訓練ノ話、若鷲ノ決意ニ付テハ涙ヲ以テキク。訓練ノ実況見学。午餐後更ニ之ヲ続ケ、三時土浦ノ少年航空兵ノ訓練状況視察。次テ善応寺ニ佐久良東雄(勤皇ノ志士)ノ墓ヲ詣デ四時廿分土浦発帰路ニツク。七時ヨリ築地山口ニテ案内役ヲ招待 慰労宴ヲ張ル

三月十九日(金) 十時半ヨリ協議会。……其他飛行機ノ件ヲ雑談的ニ持出ス

五・二一(金)晴 山本〔五十六〕司令長官戦死ノ報ヲキク

六・五(土)晴 山本元帥国葬

五・三〇(日)曇 アツツ島全滅ノ発表

五月二十六日(水)晴 十時ヨリ議院協議会。……飛行機献納ハ一口二百五十円ニテ決行スルコト

十月二十八日 零時半予算委員室ニテ航空機献納式挙行

十一月八日(月) 午後三時陸海軍省ヲ訪問。衆議院号献金七万四千円宛ヲ献納ス 之ニテ完結。

戦局が悪化していくなかで、戦闘機の献納に反対すること自体は難しいとしても、議員に負担を求める醵金はデリケートな問題であったと思われる。3月19日の議院協議会において、大木は「飛行機ノ件ヲ雑談的ニ持出」している。同日付の『衆議院公報』を確認すると、たしかに当日の議院協議会の協議事項は「委員会開会ニ関スル件」のみであり、「飛行機ノ件」は含まれていない。「飛行機ノ件」をあえて協議事項とせず、前日の視察に「雑談的ニ」触れて献納に向けた雰囲気を醸成したところに、議会官僚としての大木のそつのなさが光っている。なお、佐久良東雄(さくらあずまお 1811-1860)は桜田門外の変に連座して獄死した幕末の志士である。

さて、このような日記の抜粋は、回想録を執筆するにあたっての基礎作業ともいえるものである。大木は献納機の原稿に限らず、ほかの原稿でも同様の手法を採用している。ここには、日記という記録によって記憶が喚起されていくプロセスを想定することができる。この場合、とりわけ日記を書き写すという行為が重要だろう。大木の記憶のコアにあったのは、戸塚の語り口や、航空兵の訓練ぶりだったはずである。そうした記憶が日記を書き写すことにより、山本五十六の戦死・国葬やアッツ島守備隊の玉砕といった戦局も含めて精度を高め、回想録の執筆に活かされていったのではないだろうか。連合艦隊司令長官の山本は4月18日にソロモン群島の上空で米軍機に襲撃されて戦死していた。大本営発表は5月21日の15時のことである。アッツ島では5月12日に米軍が上陸を開始し、同月29日に日本軍の守備隊が玉砕していた。

「衆議院手帖日記写」【大木操関係文書203-2】には、「昭和十九年六月十五日以後ハ別冊日誌アリ、昭和二十年十月五日迄ノ分ガ「大木日記」トシテ出版ス」と書き加えられている。そうすると、「写」は『大木日記』の出版以前に作成されたことになる。あるいは、『大木日記』の出版に向けて準備として作成されたものかもしれない。この「写」は昭和10(1935)年1月から昭和22(1947)年12月の分が作成されている(【大木操関係文書203-1~3】)。回想録の全89章のうち、岡田啓介内閣に関する章からを昭和10年以降とみなすと、55章が「写」によってカバーされている。したがって、後半の章をめぐって大木の記憶は2度(1度目は「写」を作成するとき、2度目は回想録の原稿を執筆するとき)にわたって喚起されたと考えてもよいだろう。

そうして喚起されたと考えられる記憶の一つに醵金の基準がある。日記の抜粋には、5月26日の議院協議会の情報として「飛行機献納ハ一口二百五十円ニテ決行」と記されている。ここで注目したいのは、この記述に「才費一ケ月分」と括弧で添えられていることである(〔図3〕)。確認したところ、昭和18(1943)年の「手帳」にも、前述の「衆議院手帖日記写」にも「才費一ケ月分」とは記されていない。したがって、大木は日記を書き写すなかで、1口250円という醵金が当時の歳費月額を基準として決定されたことを思い出したのだろう。歳費の金額自体は、しばしば政治問題化し、報道されるところであった。現役時代の大木も職務上、必要な数字として把握していたはずである。

では、この250円という金額は現代の価値に換算するとどのくらいに相当するのだろうか。大木の関心は、原稿執筆時点での歳費月額へと向かったようである。このことについて、大木は衆議院事務局の後輩に照会したらしい。回想録の原稿には、昭和53(1978)年7月21日付で庶務部長から大木に宛てられた手紙が添付されている。その書き出しは、「本日、〔中略〕議事部長を通じましてお尋ねのありました議員歳費その他につきまして、早速御報告申し上げます」で始まる。この日、大木は衆議院事務局に電話をかけ、庶務部長も大木に返事を書いた、ということだろう。庶務部長の回答によると、衆議院議員の歳費月額は81万円(議長155万円、副議長113万円)であった。このほか、「文書通信交通費」「永年在職表彰議員特別交通費」「議会雑費」「期末手当」「立法事務費」にもそれぞれ金額が記されている。さらに、「参議院便覧が出来上つて、此の程配付されましたが、之に以上の歴史的変遷が掲載されておりますので、御参考までに御送付申し上げます」という丁寧な対応がとられていた。

こうして大木は歳費月額の情報を入手したわけだが、回想録には記載していない。その最後は「今にして想えば、この献納戦闘機もわが軍全戦力の九牛の一毛にも及ばぬ微力なものであったに違いない。しかし当時の代議士一同の心意気だけは買ってもらいたい。あえて現在の議員歳費と比較するわけでは毛頭ないが、当時として歳費一ヶ月分そっくりそのまま全代議士一人残らず、お国のためと快く差し出したその心情を深く銘記してもらいたいのである」と結ばれている。大木としては、予想どおりの高額であったことが確認できれば充分であり、金額を記すことは野暮に感じられたのだろう。

4.日記による追体験

回想録によると、そもそも大木が同書の執筆を思い立ったのは、昭和44(1969)年に『大木日記』が世に出た際、東京大学社会科学研究所の林茂教授に書評で「短かい一年半の「大木日記」以外にも、著者にはその前後の古い日記があるはずだから公刊したらどうか」と勧められたからであった。繰り返しになるが、『大木日記』の収録期間は昭和19(1944)年6月から同20(1945)年10月である。林教授の書評によれば、「終戦前後の衆議院のほか翼政〔翼賛政治会〕、大日本政治会などの関係団体の内情――ひいては本質、代議士たちの個々の言動等を知るために、これは貴重な記録である」。だからこそ、「少くとも筆者の〔衆議院書記〕官長在任時代のすべての日記を続刊されることを著者ならびに出版社に希望したい」のであった(『週刊読書人』802, 1969.11.24)。これを受けて、大木は「よしやってみようかとの意欲がふっと湧いてきた」。もっとも、実際の続刊は日記ではなく回想録となった。大木が回想録の原稿を書き始めてから出版に辿り着いたのは、10年後のことである。

この約10年間、大木は日記という記録によって自らの記憶を喚起し、原稿を執筆してきた。その結果、「衆議院号」が献納された経緯も後世に語り継がれることになった。これに対して、「日記の世界」で大木の日記を読む私たちが記憶を喚起することは、どう頑張っても無理である。それは私たちが大木自身ではない以上、仕方がない。しかし、大木の人生、なかでも戦前・戦時の議会史を追体験することはできるだろう。そして、大木のように日記のなかの出来事をほかの情報と組み合わせながら深く知ることも可能なのである。あるいは、大木の記憶を喚起しなかった記述から、新しい事実を発見することもできるかもしれない。

参考文献

  • 大木操「はじめに―この本を書いたわけ―」「戦闘機衆議院号を陸海軍に献納す」(大木操『激動の衆議院秘話:舞台裏の生き証人は語る』第一法規出版, 1980所収)【GB511-74】
  • 大木操『大木日記:終戦時の帝国議会』朝日新聞社, 1969【AZ-241-1】
  • 衆議院『帝国議会衆議院公報 第82-85回』【BZ-3-13】
  • 横川裕一「陸軍愛国号献納機調査報告 その1~4・番外」『航空ファン』60(10), 60(11), 60(12), 61(1), 61(2), 2011.10,11,12, 2012.1,2【Z16-409】
  • 藤井忠俊「昭和初期戦争開始時における大衆的軍事支援キャンペーンの一典型―軍用機(愛国号・報国号)献納運動の過程について―」『駿河台大学論叢』6, 1992【Z22-1482】
  • 横井忠俊「“報国号“海軍機の全容を追う その中間報告①~③」『航空情報』463, 465, 474, 1984.2, 3, 12【Z16-412】