多くの方は、小学生の夏休みの宿題が日記を書いた最初の経験であろう。当時はなぜ日記を書かなければならないのか納得できず、致し方なく書いた人も多いと思われるが、その後、書くことに意義を感じて自発的に日記を書いているという方もいるのではないであろうか。特に、明治維新以降の近代に入って日記の書き手は、性別・年齢・職業・階層を越えてますます拡大し、さらに近年のブログを含めれば、その数は天文学的数字に達すると思われる。では、その場合の意義とは何であろうか。もちろん、よく言われるように、文章を書く訓練として、備忘として、記録として、修養として、文学作品として書くことが多いのであろうが、近現代歴史研究者として数多くの日記を覗き見してきた筆者からすれば、結論的に言えば千差万別としか言いようがない。すなわち、文体や分量、天気・場所・登場人物・時間・感想・会話などの具体的な書き方、公か私か・日常か非日常か・内面か外形か・身の回りの出来事か社会的出来事か、などの取り上げ方や語り方を比較すると、どれ一つ同じものを見たことがない。つまり、意義の重点の置き方はみな異なり、それがそのまま日記の個性につながっているといえよう。考えてみれば、近現代では日記は基本的に人に見せるものではないので、統一された基準というものは無く、したがって記述スタイルも各人の自由に任されている。たとえ全く同じ一日を過ごしたとしても、記主によって文章は百人百様となってしまうであろう。
さて、歴史研究者は昔も今も日記を歴史史料として非常に重視してきた。では、いったい日記には史料としてどのような価値や特徴があるのだろうか。一口に日記と言っても、いくつかのタイプに分けることができる。その第一のタイプは、最もオーソドックスなものであるが、史実の確定に重きを置くものである。日本史研究者は、特に古い時代の日記が「史実を生のまま書き伝えている」(1)ことから、それを「古記録」と呼んでいる。江戸時代に入ると、日記を書く層は大幅に広がり、貴族・神官・僧侶は勿論のこと、幕府・藩の役職者から庄屋・名主まで、その量は急増した。これらは概ね職務の一環として業務記録を書き継ぐために記されることが多かったようである(2)。また、これは厳密には日記ではないかもしれないが、天子(天皇の別称)の一日の言動をありのままに記した『昭和天皇実録』のようなものも存在する。つまり以上のものは、事実を正確に記録し、それを後世に伝えることを目的としており、その内容は史実確定の上で最も信頼性が高いものとなる。これを記録型と呼んでおこう。日記の第二のタイプは、一定の主題の下で情感豊かに綴られる主題型の日記で、そこからはその時代を生きた一人の人間の思想や精神が浮かび上がってくる。このタイプには紀貫之『土佐日記』から始まる日記文学のほかに、旅行という非日常での見聞を記した紀行日記、恋愛を中心とした私小説的な日記、自らの心の動きを克明に記した日記などを含めることができる。また、文人・思想家以外でも、例えば政治家の「原敬日記」や「原田熊雄日記」のように、一定の主題を持って書かれたものもこれに加えることができよう。
以上は、いずれも他人に読まれることを前提としたものであるが、日記の数が爆発的に増加する近現代では、これらとは異なる特徴を持つ日記がその大半を占めるようになった。すなわち第三のタイプは、記録型でも主題型でもなく、しかも他人の目を意識しない、いわば自由型といえよう。公文書が作成され新聞が発行されると、社会的な出来事をそのまま記録して後世に遺す意味はなくなり、また文学者のように常に高い緊張感を持って生活する必要のない人々には、毎日一定の主題の下で文章を書く必要もない。そのため、特に他人の目を気にする必要もなく、自分のためだけに書けばよいので、その記述スタイルも自由となり、多くは記録型と主題型が入り混じって曖昧となる。文章が前述のように百人百様になるのも当然であろう。
では、このような日記に果たして歴史史料としての価値があるのだろうか。じつは大いにあるのである。他人に読まれることを考慮しなければウソを書く必要もないので、素直な気持ちを綴ることができる。また、一定の形式にも思想にも囚われないということは、逆に言えば多様な考え方、見方を記すことができる訳であり、したがって、一つひとつの日記を取り上げれば、評価の高いものや文学者のものと比較して完成度や視点の安定性は低いかもしれないが、客観性に問題がなく、さらに日記の総数が多くなればなるほどその情報量も多岐に亘るので、ますます学術的価値は高まるであろう。さらに最近では第四のタイプとして、他人に読まれることを前提とした、否目的とした大量のブログが出現するようになった。これも将来は重要な歴史史料となることは確かである。ただブログの場合、問題の第一は、それをどのように収集し保存するかにある。また問題の第二は、大量で多様な日記類の中からどのような歴史学的社会学的視点を築くことができるのかである。これは読む側の問題であるが、ともかくいずれも今後の課題といえよう。
ところで、今回、電子展示会「国立国会図書館憲政資料室 日記の世界」で取り上げるものは同館憲政資料室所蔵のものであり、記主の多くは近現代日本の政治家である。そこで、つぎに政治家の日記に焦点をあててその特徴を考えてみよう。ただし、これについては有用な情報が既に何冊かの本によって紹介されているので(3)、ここでは簡単に記すにとどめたい。
第一に言えることは、政治家はもちろん公的な立場にあり、その影響するところも大きいため、記録型の「古記録」のように、史実の確定として大きな価値を持つということである。この意味では、確かに宿題として書かされる小学生のものよりも価値は高いといえよう。第二は、記主のエリートとしてのプライドの高さである。特に、規律を重んじる軍人や、人間としての修養を心掛ける官僚政治家の日記には、一日の言動をありのままに記す記録型記述をよく見かけるが、この場合は単に史実を伝えるという記録型の面だけでなく、自らの言動を記録し後世の人々の模範たらんとする主題型の面もあるように思われる。第三は、これが政治家の日記の最大の特徴でもあるが、主題型をさらに超え自己顕示的要素が強いということである。政治家であれば積極的に自らの正当性を後世に訴えようとするのも当然かもしれない。第四は、このようなプライドや自己顕示意識の強さの裏側として、それを守るために都合の悪いことは書いていないということである。政治家の日記でカネや女性(4)の話が登場することはまずないし、また重要な政治的出来事であっても自分の政治的立場にとって都合が悪ければ、故意に無視、軽視することもある。もっとも、そのような重大な隠蔽はなかなか隠しきれるものではなく、それを探し出すのも日記を読む醍醐味の一つといえよう。
このようにしてみると、政治家の日記には記録型ないし主題型のものが多いように思われるが、それは我々がこれまで目にしてきた、言い換えれば公刊されたものがそうであったからであって、じつは数的に言えば、他の近現代の日記と同様に、他人の目を意識することもない自由型が非常に多い。これらは、前述のように、史実の確定という意味では近現代においては価値が低いかもしれないが、その一方で、公文書や新聞には現れない人間の内面から滲み出る微妙で豊かな心の動きを豊富に含んでいる。今回の「日記の世界」からも、多くのものを発見することができるのではないであろうか。
以下では、すでに公刊されたものから今回「日記の世界」で取り上げるものまで含め、時代を分けて概観していきたい。
大正から昭和初期にかけて、大久保利通・木戸孝允・広沢真臣ら幕末・明治初期の重要人物の日記がまとまって刊行された。その背景は次のようなものであった。すなわち、幕末の危機を乗り越えて大日本帝国は憲法発布に漕ぎつけ、さらに日清・日露戦争に勝利して世界の八大国の一つに数えられるほどに成長した。この苦難の足跡を明らかにしようと明治44(1911)年、文部省中に井上馨を総裁として維新史料編纂会が設置され、国家による本格的な史料編纂事業が始まった。そして、大正4(1915)年には同会関係者が日本史籍協会を立ち上げ、『日本史籍協会叢書』シリーズの刊行を開始した。このシリーズの一部として、先ほどの日記も含まれていたのである。この経緯からも分かるように、藩閥指導者を中心に国家建設の功労者を顕彰することが目的であった。ただし、同じころ、吉野作造や尾佐竹猛・宮武外骨・石井研堂らも明治文化研究会を結成し、明治社会に大きな影響を与えた重要な文献を収集して『明治文化全集』シリーズを刊行した。この中には「自由民権篇」という巻があることからも分かる通り、国家建設とは異なる視点も導入されていた。いわば、この二つの流れが合流して、この頃から実証的で本格的な近現代史研究が始まったのである。
こうして世に知られるようになった日記には、江戸時代までの日記と同様に、漢字を多用した簡潔な文章によって事実を書き列ねる記録型が多いように思われる。これは紙が貴重であったことも影響していると思われるが、それでも日記には個性が現れる。明治10(1877)年2月18日、西郷隆盛が蹶起し、熊本県に向けて進軍したことが東京の明治政府に伝えられた。大久保利通はその日の日記に「鹿児島暴徒、熊本管内水俣、佐敷へ乱入の赴き相聞こえ、勅使〔派遣〕御見合わせ、直ちに征討を仰せ出され、征討総督を有栖川宮へ命ぜられるの御評議これあり」(以下、史料引用に際しては現代文風に一部改めた)と簡単に記しているのに対し、維新三傑のもう一人木戸孝允は、事実のみならず「この度、薩州の暴挙によりては必ず一大難を醸せしは必然にて、余も征討宮に随従し出発においては必至尽力いたさんことを欲し、過日来しばしば三条大臣へ歎願し、今日また再応その許可を乞う。また大久保、山県らの処に至りその尽力を依頼し置けり。余は政治上において痛心苦思すること在藩以来十五六年、しかして近来着実党甚だ微にして、ますます余の意見も容易に貫徹せず、〔中略〕余これを末期の奉公と決しこの念勃々として休まず、大久保には切に相乞い、また時弊をつぶさに陳述し置けり」と長々と心情を綴っている。
大久保と西郷の関係を考えれば、大久保こそ感慨を長々と書いてもよさそうであるが、逆にこのような簡潔で記録型的な文章にこそ、鉄の意志を持つといわれた大久保の真骨頂が感じられるのではないであろうか。一方の木戸は、ご覧の通り、饒舌に自らの感情を表現しており、これを読む時、維新の頃の人々が命がけで政治に向き合っていたことを我々は思い知らされる。しかし、この饒舌さは単に彼がセンチメンタリストであったからというのではなく、「日記を記しながら、考えを整理していた。あるいは整理するために日記を書いている」(5)ためであったという。いずれにしても、この両日記が歴史研究に裨益したところは大きく、現在においても一級の史料としての位置を保ち続けている。
しかし、いわば藩閥の第二世代といわれる伊藤博文や山県有朋、黒田清隆、松方正義はあまり日記を書くことがなかった。伊藤は外遊の際には書いたが、大隈重信に至っては字を書くことすらしなかった。これは、彼らに政治家としての自覚が足りなかったという訳ではない。彼らは日記の代わりに大量の書簡と書類を遺していることが多い。このことについて伊藤は、「血あり涙ある文字」で書かれた書簡は歴史を物語る絶好の史料であり、例えば自分は木戸孝允の書簡を数多く持っているが、「これによれば世間に現はれた公の伝記とは、大いに異なるものがあ」り、「書簡は人間史の記録である」(6)と述べているように、公文書に記された記録型的史料の存在を前提にして、その裏面の実態を明らかにする史料として、書簡を重視したことによるものであった。彼らは「書簡を記しながら、考えを整理していた」のである。
このように、首相級の人物こそ日記はないが、幸いというべきか、周辺の人物はかなり遺してくれている。まず佐佐木高行・徳大寺実則・土方久元・尾崎三良ら宮中関係者を挙げることができる。一般に、天皇側近者は天皇の言動について詳細な記録を遺すことが多いが、そこでは国民の前で見せる通常の国務行為者としての姿とは異なる、頂点に立つ人間として喜怒哀楽し苦悩する姿を描こうとしているように思われる。また閣僚級の政治家の日記としては、樺山資紀・伊東巳代治・野村靖・宮島誠一郎らのものが存在する。彼らは首相級政治家の情報係的な立場にある人物が多かったためか、その記述は比較的詳細であり、今後の研究にとって重要な意味を持っている。議会人としては植木枝盛・田中正造・片岡健吉・西潟為蔵・市島謙吉・河野広中・龍野周一郎ら民党系議員や、対外硬派の貴族院議長近衛篤麿らのものがある。中には淡々と事実を記すだけのものもあるが、高い教養を持ちつつも、同時に自由で解放的な精神に基づき時代の魁たらんとして、赤裸々に熱情を発露しようとする場面も頻出し、いまでも多くの人の心を捕えている。我々はこれらから、もう一つの明治史を読み取ることができよう。
以上は比較的多くの研究者が利用しているものであるが、いまだそうでないものも数多い。例えば、古来、人々は出張・旅行の際に紀行日記をよく書いたが、幕末・維新期では外国への渡航者がそれにあたる。おそらく、彼らにとって聞くもの見るものすべてが新奇であり、帰国後にその驚きを伝えたかったのであろう。あるいは、異国の地での高ぶった感情から起こる様々な経験・体験も記さざるを得なかったのであろう。「日記の世界」の中にはそのようなものが目立つ。この他、開国に伴う目まぐるしい状況変化の中で生き抜くため、必死に情報を書きとめようとするものも見受けられる。翻って考えてみれば、幕末・維新期では日常がなくなり、国内に居たとしても誰もが海外からの新奇なものと出会わざるを得なかった。つまり、これらの日記は文化摩擦、異文化交流、反発と受容、対立と共存を研究する宝庫なのである。
明治後期以降の時代に関する本格的な歴史研究が始まったのは、第二次世界大戦後といってよいであろう。よく「大正デモクラシー」という言葉を耳にするが、これも大戦後の造語である。そして、その代名詞的存在となったのが昭和25(1950)年に発刊された原奎一郎編『原敬日記』(乾元社)であった。
原自身が「余の日記は数十年後は兎に角なれども、当分世間に出すべからず。余の遺物中この日記は最も大切なるものとして永く保存すべし」(7)と遺言したように、この日記には彼が心血を注いだ政治活動、すなわち彼の人生そのものが詳細に記録されている。原はその場その場で手帳などに書き込み、それをもとに「毎夜就寝前の数分を割いて、その日の出来事の要点だけ」(8)を鉛筆でメモし、さらに週末には別荘で記憶によって補足しながら丹念に清書したという。原の場合は「日記を記しながら、政治をしていた」のである。
この日記には、それまで誰しもが倒すことができなかった藩閥・山県閥勢力との全身全霊をこめた戦いが記されている。具体的にいえば、藩閥政治家との会話文が記述の多くを占め、そこには両者の駆引きが生々しく綴られている。つまり、一つひとつの小さな交渉の連鎖が四半世紀に亘って語られ、最終的には政党内閣の成立という原の勝利で終わっている。さきほど、「原敬日記」には主題型的要素があると述べたが、それはこのようなストーリー性があるからである。そして、この明快なストーリー性は、またその後長く大正デモクラシー研究という方向を規定することになった。
もっとも、その後、新たな史料が世に知られるようになり、研究も様々な方向に発展した。その新たな史料の一つとして「田健治郎日記」を挙げることができる。貴族院山県閥のリーダーであった田の日記には、「原敬日記」には全く触れられていなかった山県閥内部や貴族院内部の動向が詳細に記されている。一例を挙げよう。大正7(1918)年8月、米騒動が全国的に広がり国内が騒然となった。これに対し、原は寺内内閣の失政として特に大きな意味を見出してはいないが、田は「今や米価騒動となる。俗物の迷夢を打破しこの機会に乗じ、断乎これら社会政策を実行」すべしと記し、深刻に受け止めていることがわかる。当時の政治家としては、非常に鋭敏な感覚を持っていたといえよう。
この他の日記を列挙してみれば、貴族院議員の石黒忠悳・三島弥太郎・水野直・黒田清輝・安川敬一郎・麻生太吉、衆議院議員では政友会の小川平吉・村野常右衛門・野田卯太郎・永江純一・横田千之助・伊藤大八、非政友会系の大石正巳・山宮藤吉らのものがある。官僚系政治家では、牧野伸顕・倉富勇三郎・阪谷芳郎・西原亀三・後藤新平・江木千之・永田秀次郎・樺山資英・岡実らの、または軍人では、陸軍の寺内正毅・上原勇作・宇都宮太郎、海軍では斎藤実・財部彪・竹下勇らのものがある。これらをみると、まず相当の数に上っていることが指摘できる。この時期では市販の日記が出回るようになり、それを利用したものも多い。つまり、日記を書くという行為が国民にも政治家にも浸透したのである。また、市販の場合は一頁に1日分が割り当てられることが多いため、全体として記述量も増えている。さらに、記述スタイルは前述の自由型に近くなっているように思われる。その極めつけが「倉富勇三郎日記」であった。余談であるが、筆者が学部学生の頃、卒業論文で同日記を利用しようと思い閲覧に行った。しかし、朝9時半から夕方5時までかかっても1日分を読むことができず、結局3日も要してしまった。かな釘琉とでも言えばよいのか、ともかく倉富は、その独特の字でその日の出来事や会話内容を細大漏らさず記したのである。
ともかく、これらの日記によって研究も大いに発展することになった。従来の山県閥対政友会という図式から、より立体的な政界構造が明らかになったのである。特に、牧野・上原・樺山・宇都宮・財部など、薩摩閥系勢力の存在がクローズアップされた意味は大きいであろう。
原田熊雄の日記が『西園寺公と政局』(岩波書店)として公刊されたのも昭和25(1950)年であった。そして、これも昭和政治史研究の幕開けを告げるものとなった。原田は元老西園寺公望の情報係ともいうべき存在である。昭和政治史において元老は、天皇の諮問に答えて首相を推薦する立場にあり、さらに軍部が台頭し始めると、親英米派の最後の砦としての役割を務め、同時に皇室を守るという重要な使命を担わなければならなかった。そのため西園寺は、自らは興津や御殿場などの別荘で過ごしながら情報係を政界要人のもとに派遣し、彼らの意見を探るとともに自分の意思を伝えた。その役割は中川小十郎や松本剛吉が担っていたが、昭和に入ってからは主に原田が担当した。松本も詳細な日記を遺したが、原田はそれ以上に意識的に日記を記し後世に伝えようとした。すなわち、軍部との戦いがこの日記を貫く主題となっているのである。同じく内大臣木戸幸一も原田と同じような立場から日記を記したが、原田のそれと比較すれば記録型に近いものであった。
「日記の世界」には、やはり西園寺の秘書であった熊谷八十三(くまがいやそぞう)の日記も紹介されている。熊谷の場合は政治情報係ではなく、別荘の管理をする執事であったが、西園寺のそば近くで仕えており、それだけに人間西園寺がより語られている。
さて、昭和期ではいっそう多くの日記が公刊、公開されている。まず、昭和戦前期で主なものだけを挙げれば、議会関係者では浜口雄幸・高橋是清・鳩山一郎・有馬頼寧・小橋一太・斎藤隆夫・山口政二・岡田忠彦・大木操・小林次郎、宮中関係では牧野伸顕のほかに東久邇宮稔彦・近衛文麿・大蔵公望・関屋貞三郎・河井弥八・岡部長景・細川護貞・徳川義寛・城英一郎、そして軍人では陸軍の宇垣一成・南次郎・真崎甚三郎・荒木貞夫・林銑十郎・阿南惟幾・本庄繁・畑俊六・鈴木貞一・岡村寧次・松井石根・宮崎周一・有末精三・片倉衷・今井武夫・中島今朝吾、海軍の高松宮宣仁親王・東郷平八郎・岡田啓介・高木惣吉・加藤寛治・小笠原長生・宇垣纏・嶋田繁太郎・沢本頼雄・岡敬純・石川信吾・南雲忠一、外交関係者では重光葵・石射猪太郎・芦田均・天羽英二・清沢冽、このほかに矢部貞治・松本学など多種多彩な日記が存在する。これも余談であるが、筆者は大学院生時代に真崎甚三郎の日記の編集を手伝ったが、真崎は二・二六事件への関与を疑われ収監される直前に、日記を壷に入れて庭に埋めたという話を聞いた。この時代の政治家は、生命さえ奪われかねない厳しい環境の中で、時代の証言者として、あるいは自己の行為の説明責任として日記を書く必要性を感じていたのかもしれない。
戦後では、宮中関係は木下道雄・寺崎英成・入江相政・卜部亮吉ら、議会関係者は前述の分を除けば、安藤正純・石橋湛山・緒方竹虎・石井光次郎・加藤鐐五郎・佐藤栄作・楠田実・坊秀男・細田吉蔵・河上丈太郎・和田博雄・平野貞夫・細川護熙らの日記がある。この他に大平正芳・中曽根康弘・宮澤喜一ら首相経験者も日記を遺したことが分かっている。こうしてみると、戦後政治家には日記を書くという習慣がかなり浸透しているように思われる。これについて、例えば中曽根は自らを歴史という法廷の被告と位置づけ、その説明責任のために多くの史料を遺したと回想しているように、意識的に日記を書いている人も少なくないであろう。なお、「日記の世界」には、寺光忠や鈴木隆夫ら戦後議会事務局関係者のものが含まれている。言うまでもなく、戦後は国会の地位が大幅に上昇したが、それだけにその運営には困難な課題が山積していた。彼らの日記にはそれらに一つひとつ立ち向かっている姿が描かれている。
文学作品でない限り、日記の記述の大部分は冗長である。記録型であれば、淡々と事実を記述すること自体を目的としており、自由型であれば読み手を喜ばせようという意識が初めからないのであるから、当然といえば当然である。しかし、人生には思いもしなかったことが突然降りかかり、思わぬアクセントをつける。そして、この日常と非日常の繰り返しのリズムの中から、読み手も思わぬ拾い物をするのではないであろうか。今回の「日記の世界」を楽しんでいただければ幸いである。