開国から明治の初めにかけては、海外への旅行は限られていました。電子展示会「国立国会図書館憲政資料室 日記の世界」で紹介する人物の中には、留学生、使節団随行、用務などで訪れた国々の様子を日記に綴っている人もいます。ここでは、抜書きを通じて、こうした日記の一部を紹介したいと思います。
文久2(1862)年沢太郎左衛門をはじめ、榎本武揚、内田恒次郎、赤松則良らはオランダ留学生として日本を離れます。同年7月4日(1862年7月30日)の沢の日記には、船出前から流行していた麻疹に乗組員が多数罹患し、下田に逗留を余儀なくされたこと、同年8月2日(1862年8月26日)には下田での逗留が終わって出発したことが書かれています。文久3年1月1日(1863年2月18日)、旧暦で祝った正月は船上でシャンパンによる乾杯だったと沢・榎本両人が書いています。2月9日(1863年3月27日)、内田はナポレオンについて書いています。それぞれが多様な関心を抱えつつ留学先に向かったようです。赤松も約11ヵ月の旅の後、4月にオランダに到着した折の印象を記しています。
横浜鎖港談判使節団でヨーロッパに向かった杉浦譲は、文久4年2月19日(1864年3月26日)にエジプト到着のことを書いています。この日訪れたモスクから遠くに見えたピラミッドを、2月28日(1864年4月4日)に見物し集合写真を撮りました。(コラム「古代をのぞく海外旅日記」を参照。)。
明治になってから欧米各国へ各分野の留学生が向かいましたが、官費留学は明治10年代後半頃からはドイツ中心になっていきました。また使節団の派遣も行われました。明治4(1871)年不平等条約撤廃に向けた調査などを目的とした、岩倉具視を全権大使とする欧米への使節団が出発します。副使であった伊藤博文は訪問したドイツで当時の皇帝ヴィルヘルム1世と宰相ビスマルクに謁見場で会っています。随行者には、幼い女子留学生、津田梅子や山川(大山)捨松もいました。
また軍人の大山巌は、明治3(1870)年普仏戦争観戦視察のため渡欧し、2回目の渡欧では、明治4(1871)年からフランス・スイスに留学しています。明治3年9月17日(1870年10月11日)、はじめてヨーロッパに向かう船上で、見渡す限りの海を見ながらコロンブスを懐古します。留学中の明治5年9月18日(1872年10月20日)には、のちのロシア人革命家・メーチニコフの訪問を受け親交が始まります。留学によって人脈も広がりました。
明治10年代には、榎本武揚がロシアから帰国する際にシベリアを横断した記録を遺しました。「シベリヤ日記」と呼ばれる日記は、単なる個人の日記でなく、シベリア地方の多くの情報が記載された貴重なものです。
これまでは欧米の話でしたが、最後にアジア、太平洋地域に用務に出かけた人の日記を紹介しましょう。明治18(1885)年2月に伊藤博文は天津条約調印のため清国に派遣されています。「西巡日記」と呼ばれる記録には、3月16日に清国宰相・李鴻章と会って光緒帝への謁見を求めたことなどが記されています。また明治天皇の特使としてハワイ王国を訪れた長崎省吾が「布哇国滞在中日記」と題する任務遂行の記録を記しています。
明治18(1885)年3月16日
午後六時半、李相道台[どうだい]及び通弁を携帯し来る。食後使事を談ぜんと欲し、別室に誘引し余先づ彼に告曰く、聞く所に拠れば、閣下全権委任を受たりと、果し[て]しかれば、余実に欣躍に堪へず、しかるに全権大使の任、必ず先づその国都に入り皇帝に謁を請ひ、携帯する所の国書を捧呈せざるを得ざるの職務あるをもって、節をこの地に駐ずるを得ざるをもってす。李曰、我皇帝尚幼沖[ようちゅう]にあるをもって外国の使臣に接せずと。余又曰、皇帝幼沖にして引接に便ならざる、皇太后垂簾[すいれん]政務を執る、帝に代て謁を賜ふも可なり。李曰、我国風婦女子外人に接せず、閣下能[よ]くこれを知るべしと。
ここでは明治10年代の日記までを紹介しましたが、「日記の世界」では海外渡航に伴う記述がある日記を多数紹介しています。参考までに幕末から明治20年代までの海外渡航に関わる日記の例を挙げておきましょう。