日記には様々な物が貼られたり、挟み込まれたりしていることがあります。それらをここでは附属資料と呼ぶこととし、実際にどのような附属資料があるのかを、3人の日記から紹介してみましょう。これらの日記には、その人物の職業や生活、趣味など幅広い附属資料があり、別の顔を垣間見ることができます。
まず1人目は、明治半ばから昭和の初めまで日記を書き続けた石黒忠悳です。石黒は軍医であり、貴族院議員でもありました。彼は日記の中にたくさんの資料を挟んでいます。明治29(1896)年、軍医として台湾視察に出かけた折の「明治二十九年十月台湾巡回日誌、同三十年二月英照皇太后陛下大葬参列日誌」には、「台北ペスト患者表」(写)、「明治二十九年自四月十六日至十月三十一日患者転帰百分比例表(嘉義衛戍病院)」「台湾の地図」(写)などが挟み込まれたり転記されたりしています。
また明治20(1887)年~明治21(1888)年ドイツ出張時の「日乗 巻3」には、「Hotel & Pension Perey(パリ)」、「Königliche Schauspiele, 1888.2.15」(ベルリン王立劇場「オセロ」の配役表)、フリードリヒ・ヴィルヘルム劇場の「配役表」、「三月十三日官私財精算一覧表」、「独逸老帝一代日記目録」などが貼り付けられたり挟まったりしています。さらには、日清戦争の軍功で金鵄勲章を授与された軍人の略伝が掲載された『征清武功鑑』の出版社から送られた原稿の確認依頼書([明治29年]1月19日付)まで紛れ込んでいます。
石黒の他の日記にもここで紹介できないくらいたくさんの附属資料が見つかります。中身もバラエティに富んでいて、印刷された略暦、手書きの家の図面、不動産売却書類、名刺、郵便物受領書、領収証、金利通知のほか、株の利回りの新聞切り抜きまであります。郵便物受領書からは、筆まめな石黒は日々、日記をつけるだけでなく、手紙も多く書いていたのではないかと推測されます。また石黒が、株式などの投資に興味をもっていたこともわかります。附属資料から石黒忠悳の別の面を垣間見る機会が得られるかもしれません。
2人目は、明治末から大正初めにかけて東京市長を務めた阪谷芳郎です。阪谷は大蔵官僚から蔵相となった人物で、渋沢栄一を岳父に持ち、さらに貴族院議員も務めました。阪谷が東京市長に就任したのは明治45(1912)年7月8日のことで、同月30日に「大正」と改元されました。
彼の市長時代の日記は、『東京市長日記』としてまとめられており、この中にも多くの附属資料、特に新聞の切り抜きがあります。阪谷の人となりなどが書かれた記事や、ポンチ絵のような切り抜きなどを日記の横にきちんと貼っています。
新聞切り抜きは形が不定形であるにもかかわらず、記事のサイズを計算して日記を書いたようになっています。石黒と異なり、多種多様なものがあるというより、新聞を中心とした切り抜きが日記帳からはみ出さず整然とのりで貼られているのが特徴で、阪谷の几帳面さを表しているようです。市長として多忙な日々を送る中で、市政に関する巷の評判や市長としての自分の評価が気になっていたのかもしれません。たくさんの新聞をすみずみまで読んで切り取った阪谷の心境を想像したくなります。
3人目として、太平洋戦争期の帝国議会で衆議院書記官長として活躍した大木操を挙げます。大木は書記官長としての職務日誌と個人の日記の両方を書いています。職務日誌の中に挟まっていたものに「要望」があります。「要望」は第87回帝国議会中の「日誌 大木書記官長手記 昭和廿年四月六日~五月十五日」の中にあります。この資料は、当時衆議院議員であった森田正義が記したもので9か条の要望事項から成っています。9か条の要望は、陸海軍の一体化や陸軍強化などの軍事に関することから、政治結社の不承認、行政機構の簡素化、食糧増産など政治や生活に関わることにまで及んでいます。森田は昭和17(1942)年、大政翼賛会の推薦を受けて栃木県第2区から立候補し、当選していました。当時の議会で発言されず、議事速記録にも残っていない森田の考えをこの附属資料から知ることができます。
駆け足で日記の附属資料を少しだけ覗いてみました。今回紹介した3人は、明治・大正・昭和時代の中で、日記を記しつつ日記の中に多種多様なものを一緒に残しました。附属資料として扱われるこれらのものは、ある時は日記本体を読み解くのに役立ち、ある時は日記作者が何に関心を持っていたかが分かったりします。また、それ自体が貴重であり、珍しいものもあります。多くの情報の玉手箱である日記、その中に存在する附属資料もまた宝の山かもしれません。3人の日記以外にも「国立国会図書館デジタルコレクション」の日記資料をめくることで、新たな出会いがあるかもしれません。