巨塚三个(カ)あり其形三角にて(大中小あり)何れも石築(石質御影石に似たり)大きさ一隅六十丈、高も又同しといふ…三个塚前に岩を彫りて作りし巨人の首あり、大さ四丈計もあるへく、肩より以下は砂中に埋没して見へす
元治元年2月28日条 「外国方時代日記. 文久奉使日記」【杉浦譲関係文書85】
旅に出ると、その記録をノートや日記につけて残したくなるのではないでしょうか。鎖国をやめた江戸幕府は、欧米にいくつもの遣外使節団を送っています。それらに参加した人たちは、いろいろと記録や日記を残しています。第二次遣欧使節団(文久3(1863)年横浜鎖港談判使節団・池田使節団)に加わった幕臣の杉浦譲は江戸とパリの往復を記しています。日記の冒頭の肩書に「大日本欽差使節附属書記」と記しており、個人的な記録のみならず、仕事の記録という面もあったようです。
旅行で同じルートをたどる場合、「西遊記」ほどではありませんが、どうしても帰りの記述は少なくなります。この日記でも目的地であるパリでの見聞やそこにたどり着くまでの往路は詳しく記されています。その中でも、エジプトでの記載が目につきます。当時はまだスエズ運河が開削中であったため、紅海に面したスエズからエジプトに上陸して、陸路を経てアレクサンドリア港から地中海に出ていました。この使節団の写真は、スフィンクスの前で撮っており有名なものです。
日記をめくると、元治元年2月28日(1864年4月4日)にはギザの三大ピラミッドとスフィンクスを見に行った記述があります。
「巨塚三个あり其形三角にて(大中小あり)何れも石築(石質御影石に似たり)大きさ一隅六十丈、高も又同しといふ…三个塚前に岩を彫りて作りし巨人の首あり、大さ四丈計もあるへく、肩より以下は砂中に埋没して見へす」
と記し、その後で「是古昔何等の意を寄せしや測り難し」
と首を捻っています。
巨塚三个(カ)あり其形三角にて(大中小あり)何れも石築(石質御影石に似たり)大きさ一隅六十丈、高も又同しといふ…三个塚前に岩を彫りて作りし巨人の首あり、大さ四丈計もあるへく、肩より以下は砂中に埋没して見へす
元治元年2月28日条 「外国方時代日記. 文久奉使日記」【杉浦譲関係文書85】
その数日前の2月24日には、カイロにある博物館を訪れて「四囲皆石彫木刻の人像大小種々の体あり碑銘象形の文など奇なる製作にて、或は獣首人身なるもあり…近くして二三千年遠くして五六千年の遺物古色蒼々として各房に充てり、蓋古塚中より掘出せしものにて、支那棺槨、服飾の古製にも髣髴せり」
とヒエログリフや古代の神像を間近で見て、中国の文物を思い浮かべています。さらに「抑金石の能く久遠を保てる、人生のいくばくもなき浩嘆に堪えざるなり」
との感慨をもよおしています。この博物館は、杉浦たちが訪れる前年文久3(1863)年に、開館したばかりでした。
エジプトでは西欧文明とも異なる過去の文明との出会いがありました。この後、使節団一行はパリを目指して出発しました。