その時代の様々な姿を映し出している日記の記述を、時系列で紹介します。
1860 年代以前 ( ~明治2年) 主なできごと 1854年 日米和親条約調印 1867年 大政奉還・王政復古の大号令 嘉永7年1月25日(1854年2月22日)
黒船に乗ってきた人を見る
詳しく 為人皆、長身、而白肌緑眼、而高鼻短髪。[人となり皆、長身、白肌緑眼、高鼻短髪。] 万延元年5月5日(1860年6月23日)
噴火山を東北に見、十時浦賀港に下碇す。聞くに、過る三月三日大老職井伊公登城の途、外桜田において浪士のため殺害せられ、午後浪士等攘夷を主張し、外国人を襲わんとするの催あるとし、騒然たりと。 慶応4年3月13日(1868年4月5日)
戦と不戦と興と廃とに到りて、今日述るところにあらず、乞ふ、明日をもって決せむとすと云。 1870 年代 (明治3年~明治12年) 主なできごと 1874年 民撰議院設立建白書 1875年 漸次立憲政体樹立の詔 1877年 西南戦争 明治6(1873)年2月27日
外務卿副島種臣をもって特命全権大使と為し、清国に派遣せしむ。大丞柳原前光、少丞平井希昌、訳官鄭永寧をしてこれに属す。 明治10(1877)年9月24日
払暁第四字[四時]、各旅団よりニ中隊づゝをもって進撃するに、僅か一字間[一時間]余の戦ひに巨魁悉く斃[たお]れ、七字[七時]過に至て全く戦ひ終る。午後大に雨降る。 1880 年代 (明治13年~明治22年) 主なできごと 1881年 明治14年の政変 1889年 大日本帝国憲法発布 明治14(1881)年8月28日
東洋大日本国国憲按を草す
詳しく 二十八日、小島稔来訪。大風雨幽居。日本国憲法を草す。二十九日、大風雨。幽居。日本憲法を草す。 1890 年代 (明治23年~明治32年) 主なできごと 1890年 第1回帝国議会召集(大日本帝国憲法施行) 1894年 日清戦争勃発 1898年 第1次大隈内閣(隈板内閣) 明治23(1890)年11月25日
帝国議会始めて召集せらる。衆議院議員衆議院(内幸町)に集会す。書記官長曽根荒助、仮に議長の職を行ふ。議長候補者三名を選挙す。中嶋信行議長となり、津田真道、松田正久三氏当選す。副議長候補者三名を選挙す。津田真道、楠本正隆、松田正久当選す。 明治26(1893)年10月23日
午前十一時石の巻を出て、桃生郡深谷村広淵[ものうぐんふかやむらこうえん]に抵[いた]り、広淵寺の公会に臨む。聴衆一千五百余、瀬戸、重野、龍野、板翁出演。非常の感動を与へ、午後八時半散会。 明治27(1894)年7月24日
本日発刊の新聞紙を閲するに、我軍船朝鮮海岸を砲撃したりとの電報を掲ぐ。日清間の関係、弥[いよいよ]切迫したるを覚ゆ。国家の為め憂慮措く能[あた]はざるなり。 1900 年代 (明治33年~明治42年) 主なできごと 1902年 日英同盟 1904年 日露戦争勃発 1910年 韓国併合 明治35(1902)年2月15日
日英同盟成立の為め英公使館を訪ひ祝す。又清国公使蔡鈞を訪談話。外務小村、総理桂の官舎を叩く。 明治38(1905)年1月1日
元旦、旅順の敵将降伏の報あり
日露戦争 正月 詳しく 午前十一時、将校始め奏任官年首の祝儀を述ぶる為め来訪。午後二時、第二軍外国従軍武官一同是又新年祝儀を述べたり。終りて日本流のトソ酒肴を出し宴会を開き、十二分の喜びを尽して夜に入て帰れり。時に午後三四時頃旅順より電報あり、望台を占領せりと。その後続て好報あり、午後十時に到り敵将ステツセール[Анатолий Михайлович Стессель]より開城の申込みありたるとの事なり。それより再び将校以上集会し、盛かんに陛下の万歳を唱へ、兵卒に到る迄皆集り、軍歌をうとうて天地も倒るばかり盛会なりし。 1910 年代 (明治43年~大正8年) 主なできごと 1914年 第一次世界大戦勃発 1918年 米騒動 大正3(1914)年8月23日
正午日独国交断絶、…世界は大変、成敗は大人物の出現するや否に存す。予想、欧洲大激戦は九月中一段落、その後は局部戦となり本年内に平和回復のこと、但国土分配に付、再び破裂するや否は知るべからず。 1920 年代 (大正9年~昭和4年) 主なできごと 1920年 国際連盟発足 1923年 関東大震災 1928年 第16回衆議院総選挙(初の男子普通選挙) 大正10(1921)年11月4日
原首相、午後七時二十五分東京駅にて暗殺の報を聞き、総理大臣邸に立寄る。野田逓相、浅田徳則等在り。帰路金子子爵邸に立寄り、兇変を告げ善後策を談ず。犯人は中岡艮一。(十九才、東京大塚駅ポイントメン)。 大正12(1923)年9月1日
関東大震災、消防間に合わず
詳しく 午前十一時五十五分大地震。…火災盛んなりしをもって、築地一角を救はんとして蒸汽ポンプを尋ねしが、一台も来らず。工兵無能驚くべし。午后八時過、別宅及事務所全焼す。 1930 年代 (昭和5年~昭和14年) 主なできごと 1932年 五・一五事件 1936年 二・二六事件 1937年 盧溝橋事件(日中戦争勃発) 昭和5(1930)年11月14日
午前九時発「燕」号にて出発の間際[まぎわ]、八時五十七分東京駅プラットフオ-ムにおいて、佐郷屋留雄[さごうやとめお]なる一青年の為、モーゼル式拳銃をもって狙撃せられ、弾丸下腹部に命中、重傷を負ふ。 1940 年代 (昭和15年~昭和24年) 主なできごと 1940年 大政翼賛会発足 1941年 太平洋戦争勃発 1945年 終戦 1946年 第22回衆議院議員総選挙(初の男女平等普通選挙) 日本国憲法公布 1947年 日本国憲法施行 昭和15(1940)年9月27日
三国条約調印。…万歳なりひびき、こゝに大祝賀終る。しかし心からそれは楽しかったか、否。前途を見れば中々[なかなか]大難局。 昭和17(1942)年3月5日
今朝八時過空襲警報あり。南鳥島附近迄、米航空母艦より出たる航空機三十機来襲の由。内七機撃墜、後は撃退。 昭和20(1945)年8月11日
五時加瀬君来訪。十日午前六時発電、スウェーデンよりロシア、英[イギリス]、瑞西[スイス]より支那[中国]、米[アメリカ]、何れも到達せり。米は午后六時四十五分頃受取りたりと云ふ。重慶は爆竹、琉球基地は高射砲を発ち、サイレンをならし、B29を出さんとするも出るものなし。米、英も戦捷[戦勝]気分にひたりおれり。英は承知すべし。米も下にも反対のものもあるも、指導者は受諾すべし。重慶は蒋は反対せざるべきも一部に反対者あり。ロシアは不明。ロシアが承諾せざれば、一応は戦を継続するの外なし。陛下が戦を止めろと仰せられしは七月九日なり。 昭和20(1945)年8月15日
正午、予算委員室にて、正副議長、余及全職員並[ならびに]居合せたる議員と共に、ラヂオを謹んできく。詔書を宣らせ賜ふ。玉音に、頭[こうべ]垂れ悲憤の涙抑へ難し。しかしこの恨みは何れは霽[は]らさむ。 昭和21(1946)年11月3日
今日は実に印象の深い日だった。議会で陛下臨御の下に公布の式、昼食は議員食堂で祝杯、午后二時宮城前の広場で東京都の都民祝賀大会、陛下御親臨、そして集まる市民の熱狂!素晴らしい日だった。 1950 年代以降 (昭和25年~) 主なできごと 1951年 サンフランシスコ講和条約調印 1960年 日米新安全保障条約調印 昭和35(1960)年4月24日
警察官を、院内に入れて、一気に通過させては、与論が承知せぬ。 昭和53(1978)年11月28日
私の出番
詳しく 六時頃起床、新聞に目を通す。昨夜の福田総理の退陣表明を堺にして、事態は急速に収拾に進み、静かに私の出番を迎えてくれる空気ができつつあるようである。