熊本城下の惨禍 西南戦争 詳しく
午後、賊軍川尻駅熊本より二里に著[あらわ]す。昨日鎮台の出火より引続熊本市中は炎焔天に漲[みなぎ]り、要衝にある架橋は鎮台より破壊し、人民は難を避[さけ]んとて東奔西走、実に目視するに忍びざる景況なり。
しながわやじろう
1843年~1900年
午後、賊軍川尻駅熊本より二里に著[あらわ]す。昨日鎮台の出火より引続熊本市中は炎焔天に漲[みなぎ]り、要衝にある架橋は鎮台より破壊し、人民は難を避[さけ]んとて東奔西走、実に目視するに忍びざる景況なり。
賊兵熊本に進み、城の四方に迫り攻撃この日小銃のみ。我兵大小砲をもってこれに応ず。藤崎口城の西南、戦もっとも烈し、賊の七番隊長宇都宮良左衛門を打取。この日樺山中佐、与倉中佐銃創を被[こうむ]る。与倉は病院にて死。
○十九日より今日に至迄、城の四面炎焔絶へず。○夜城中にて煙花数発を揚げて、春眠を覚ます。
去月二十二日の戦に台兵藤崎より賊兵を進撃するの際、兵卒斉藤弥七なる者の行衛[行方]を知らず。皆以為[おもえら]く必賊丸に中[あた]りて死せりと。その屍を探せども得ず。しかるに本日に至り、藤崎の麓より仰いで麾[さしまね]くものあり。台兵もって賊とし一丸を発[はな]つ。中[あた]らず。猶麾[さしまね]いて止[や]まず。依て台兵その傍に至りこれを見れば、則先きの斉藤某にて頬部及び足脛を射徹され、白昼動くときは賊に認められん事を恐れ菰[こも]を冐[かぶ]りて静に伏し、夜は間を伺ひ僅に匍伏[ほふく]し、八日を経て終[つ]ひに帰営せり。その間固[もと]より一飲食を為さず。疲労甚しと雖[いえども]、八日間の艱苦[かんく]を物語せり。
昨日午後五時より段山[だにやま]攻撃を始め、本日午後三時に至り、賊兵敗走す。この戦や開戦已来[いらい]の大激戦にて、現に賊屍の戦跡に在[あ]る者百余。
天保14(1843).9.29山口生まれ。安政4(1857)松下村塾に入塾し、尊攘運動に奔走、戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀。明治2(1869).12~明治3(1870).5弾正少忠、明治3.8普仏戦争見聞のため欧州差遣、明治4(1871).6英国滞在を命ぜられる、1873.12ベルリン公使館勤務、1875.12帰朝、1876.4権大史兼内務大丞、1877.1内務大書記官、1879.5地理局長、1880.2内務少輔、1880.3兼勧農局長、1882.6農商務大輔、1884.7子爵、1885.9駐ドイツ公使、1888.4枢密顧問官、1888.12宮中顧問官、1889.5兼御料局長、1891.6第1次松方内閣内務大臣、1892.6西郷従道等と国民協会を創設、1900.2.26死去。
(リサーチ・ナビ「品川弥二郎関係文書」より)
近代日本人の肖像より