ししどたまき
1829年~1901年
年
1838芸窓日録 五
【宍戸璣関係文書(その2)186】
年
1848敬宇略日録草 嘉永元年12月6日~2年3月1日
【宍戸璣関係文書(その2)187】
年
1854〔手記〕 嘉永7年1月18日~29日
【宍戸璣関係文書(その2)188】
年
1854北陲日誌 草稿 〔安政元年〕6月12日~11月28日
【宍戸璣関係文書(その2)189】
年
1854日誌 〔安政元年8月〕21日~11月27日
【宍戸璣関係文書(その2)190】
年
1855滞崎雑録之一 〔安政2年~3年〕
【宍戸璣関係文書(その2)191】
年
1855滞崎雑録ノ一 〔安政2年~3年〕
【宍戸璣関係文書(その2)192】
年
1856不急察録 安政3年5月
【宍戸璣関係文書(その2)193】
年
1860〔日記〕 万延元年7月1日~文久元年8月23日
【宍戸璣関係文書(その2)194】
年
1862〔日記〕 文久2年1月~11月
【宍戸璣関係文書(その2)195】
年
1862〔日記〕 文久2年12月~元治元年7月
【宍戸璣関係文書(その2)196】
年
1862日載 〔文久2年ヵ〕11月3日~11月11日
【宍戸璣関係文書(その2)200】
文政12(1829).3.15山口生まれ。安田直温三男。嘉永元(1848)山県半七(太華)の養子となる、慶応元(1865).10広島差遣(萩藩家老宍戸氏の養子となり半蔵名を宍戸備後之助と改名)、慶応年間には、征長戦争における幕府の問罪使永井尚志らと広島で応接した。明治2(1869).10山口藩権大参事、明治3(1870).10刑部少輔、明治4(1871).7司法少輔、明治4.11司法大輔兼文部大輔、明治5(1872).5教部大輔、明治5.10~1873.9兼文部大輔、1877.1元老院議官、1879.3特命全権公使・清国駐箚、1881.5帰朝、1882.8宮内省出仕、1884.4参事院議官兼宮内省御用掛、1885.12元老院議官、1887.5子爵、1890.11~97.7貴族院議員、1901.10.1死去。
(リサーチ・ナビ「宍戸璣関係文書(その1)」より)