日本を離れる前、鹿児島沖にて 海外 詳しく
波穏に船平にして、始て蒸気の力を専にするを得たり。漸く薩の地方に近寄て航す。海門嶽[開聞岳]遙に波光潮煙の外に聳[そびえ]て、宛然月夜の芙蓉に似たり。眺望いと面白し。夜に入り風雨一並来り、天色昏黒枕上点滴に霑ふも苦し。
すぎうらゆずる
1835年~1877年
波穏に船平にして、始て蒸気の力を専にするを得たり。漸く薩の地方に近寄て航す。海門嶽[開聞岳]遙に波光潮煙の外に聳[そびえ]て、宛然月夜の芙蓉に似たり。眺望いと面白し。夜に入り風雨一並来り、天色昏黒枕上点滴に霑ふも苦し。
それより一巨寺に遊ぶ。市外阜上にあり、凍石を彫刻して柱梁とす。高さ凡十余丈もあるべく、上は金碧五彩熀燿目を眩し、下は凍石を舗き列[つら]ね、回廊水盤華■にして観るべし。是礼拝堂にて門口砲卒警衛せり。寺外より望めは市府一目了然にて、有名の巨塚人首の壮観も遥[はるか]に見えり。
年
1863外国方時代日記 文久奉使日記 文久3年12月~元治元年7月
【杉浦譲関係文書85】
年
1863外国方時代日記 使幕雑報 文久3年12月~4年2月
【杉浦譲関係文書86】
年
1870客中雑記 明治3年10月~11月
【杉浦譲関係文書145】
年
1870繰糸場取建日誌 明治3年10月
【杉浦譲関係文書146】
天保6(1835).9.25山梨生まれ。のち愛蔵と改名、新政府出仕の頃より譲と名乗る。文久元(1861).9外国奉行支配書物御用出役、文久3(1863).12鎖港使節随員として渡欧、慶応3(1867).1パリ万国博へ徳川昭武の随行として渡欧、慶応4(1868).1外国奉行支配組頭となり、外交事務を新政府へ引き継ぐ、駿府藩へ随従後、明治3(1870).2民部省改正掛出仕、明治3.6駅逓権正、明治4(1871).3駅逓正、明治4.8太政官権少内史、明治5(1872).10太政官権大内史、1874.1内務省地理頭、兼戸籍頭、1874.2地租改正掛、1874.6条約改正掛、1876.8授産局御用掛、1877.1内務省地理局長、1877.8.22死去。
(リサーチ・ナビ「杉浦譲関係文書」より)