おおとりけいすけ
1832年~1911年
秋田領大館に宿。この地去冬南部と戦争の節、兵火に罹る。
天保3(1832).2.28兵庫生まれ。播磨赤穂の医師小林直輔の子。備前閑谷黌で漢学、大坂の適塾で医学、江戸の江川塾で西洋砲術を学ぶ。戊辰戦争では会津若松の救援をはかって失敗、函館五稜郭で抵抗、投獄。出獄後新政府に出仕、明治5(1872).1開拓使御用掛、明治5.2兼大蔵少丞、米国差遣、1874.9陸軍省出仕、1875.1工部省出仕、1875.6工学権頭兼製作頭、1875.11工学頭、1877.1工部大書記官・工作部長、1881.12工部技監、1882.8兼工部大学校長、1882.12元老院書記官、1886.4~88.7兼学習院長、1887.4兼華族女学校長、1889.6~95.5特命全権公使・清国駐箚、1893.7兼朝鮮国駐箚・公使兼勤、1895.11枢密顧問官、1900.5男爵、1911.6.15死去。
(リサーチ・ナビ「大鳥圭介関係文書」より)
近代日本人の肖像より