黎明期の政党を担った人々

明治7(1874)年1月、明治政府に対して「民撰議院設立建白書」を提出した愛国公党は、征韓論で下野したメンバーを中心に結成されました。自由民権運動が広がる中で全国各地に多くの結社や政社が設立されますが、板垣退助が設立した立志社が中心となり全国的な組織として愛国社が結成され、更に国会開設を目標とする国会期成同盟が発足します。明治14(1881)年に「国会開設の詔書」が出されたことにより、民権派は国会での活動に向けた新党の結成に乗り出します。
ここでは代表的な結社や政党で活躍した人々をご紹介しましょう。


<愛国公党の主なメンバー>


<国会期成同盟の主なメンバー>


〇自由党 明治14年10月29日~17年10月29日

明治14(1881)年10月29日に国会期成同盟を基盤として結成されました。板垣退助が総理(党首)、中島信行が副総理です。メンバーの中心は、藩閥政府から除かれた旧土佐藩士、全国各地の地主層、在野の論客等です。フランス流の自由民権思想を汲んで藩閥政府に対抗しようとしますが、福島事件や加波山事件などの過激事件を起こすなど、急進派を抑えられず解党しました。


〇立憲改進党 明治15年3月16日~29年3月1日

明治15(1882)年3月16日に大隈重信を中心として結成された政党です。大隈重信を総理、河野敏鎌を副総理として、自由党に対抗してイギリス立憲政治に則った議会政治を理想に掲げました。幹部として活躍した政治家には、小野梓、尾崎行雄、矢野竜渓、沼間守一、島田三郎、箕浦勝人等がいます。


〇立憲帝政党 明治15年3月18日~16年9月24日

立憲帝政党は、明治15(1882)年3月18日に東京日日新聞社長の福地源一郎、明治日報社長の丸山作楽、東洋新報社長の水野寅次郎の3名が発起人となって結成された政府を支持する政党です。

「国会開設の詔書」後に結成されたこの3つの政党は、その後どうなったのでしょうか。 政府を支持する政党として誕生した立憲帝政党は、自由党や立憲改進党に対抗できず政府の支援も得られないまま16年9月24日に解党しますが、民党に対抗する勢力は、大成会や国民協会、帝国党へとつながっていきます。 国会開設後の総選挙で当選した自由党を系譜とする各派は、大同団結して立憲自由党(翌年自由党と改称)を結成しました。立憲改進党は29年に発展的に解消して進歩党を結成します。この自由党と進歩党は、藩閥政府に対抗する必要から31年6月22日に合同で憲政党を組織し、同月30日には日本最初の政党内閣が誕生しました。大隈重信を首相(外務大臣を兼務)、板垣退助を内務大臣とし、隈板内閣(第1次大隈内閣)と呼ばれています。

関連情報

    参考文献