国立国会図書館憲政資料室 日記の世界

榎本武揚のシベリアにおける写真収集

コラム

明治11(1878)年、ロシアのサンクトペテルブルクから1人の男が従者を連れてシベリアに旅立ちました。その人の名は榎本武揚。駐露公使として赴任し、その任務を終えて帰国の途につくところでした。榎本はロシアでの任務終了後、関心あるシベリアを横断して帰国することにしたのです。彼は横断旅行の記録を「シベリヤ日記 甲乙」として残しています。これについては、広い角度からシベリアが観察されていると指摘されています。

では「シベリヤ日記 甲乙」を紹介する前に、少し榎本武揚について触れましょう。

榎本武揚といえば、旧幕臣として戊辰戦争時、五稜郭に立て籠もったことで知られています。彼は非凡な才能の持ち主で、幼少期に昌平黌で漢学を学びながら、ジョン万次郎の塾で英語を学び、幕臣としてオランダ留学で軍事学・砲術学・蒸気機関等の科学技術から、国際法、鉱物学まで幅広く学びました。戊辰戦争後罪人となった榎本に、明治新政府は官吏としてその才能を生かす道を与えます。幕府のために留学して得た知識や技術は、皮肉にも新政府の国家建設に役立つことになりました。

さて「シベリヤ日記 甲乙」は日記であり、旅行記でもありますが、今回は榎本が旅行中に行った写真収集に絞って、各都市での収集方法や写真の内容、土地の人々との接し方等を紹介してみましょう。

榎本がシベリアに関心を持ったのは、新政府に出仕して北海道に渡ったときからです。北海道への渡船中、ロシア人からシベリアの話を聞き、榎本は大いに関心を抱きました。そしてロシアでの任務終了後、シベリア鉄道もない時代にシベリアに行く横断旅行を決意します。サンクトペテルブルクから極東のウラジオストクまでは、距離にして10,000キロ、日数にして66日余りの旅程で、ロシア側から厚遇されたとはいえ、過酷を極めたものでした。この間に榎本は立ち寄った都市での記録を克明に残しています。彼が写真収集した都市と方法、内容を一覧にしてみました。

サンクトペテルブルクからウラジオストクまでの旅程が記された地図
明治11(1878)年榎本武揚シベリア旅程図
講談社編『榎本武揚 シベリア日記』(講談社学術文庫)講談社, 2008の【地図1】を元に作成
榎本武揚が写真収集した都市と収集方法、内容
日付 都市名等 収集先 方法 内容
7月29日 ニジニ・ノヴゴロド 写真館 購入 「当府の写真」若干枚
8月3日 ペルミ ゲネラル某 写真1枚、ゼオロデカル・マップ(地質図)
8月9日 チュメニ 写真館 購入 「当府の写真」1枚
8月11日 カムヱシンスカヤ 撮影 タランタス(旅客用馬車)2輌並べて撮影
8月12日 セレブリャンノエ村手前 撮影 写真撮影
8月23日 クラスノヤルスク 旅宿主人 返礼 「本人と妻と一緒の写真」1枚
8月23日 クラスノヤルスク ドイツ人写真館 購入 写真2枚(値段15ルーブル)
8月30日 イルクーツク 鎮台、旅宿主人、付添いの大佐 交換 ブリヤークの首長が集合写真を送ることを約束する。
鎮台、旅宿主人、及び付添いの大佐などと写真交換をする。
8月30日 イルクーツク 購入 「当府の景観の写真」4枚(値段は1枚7ルーブル)
9月1日 セレンギンスク・ストレロチヌイ渡し 撮影 ブリヤーク人達の写真
9月2日 トロイツコ・サフスク 写真館 購入 「キャフタの景色」2枚
9月2日 トロイツコ・サフスク コミサル 売買城(中国領)の風景写真3枚、画1枚
9月7日 チタ 写真館 購入しようとしたが写真がなかった。
9月10日 ブーチンスクの砂金場(ネルチンスク) 番頭の家 写真1枚
9月10日 ブーチンスクの砂金場(ネルチンスク) 宿主 「砂金場の写真」、ネルチンスクから北京までのエクスペディション(探検旅行)の書物
9月18日 ブラゴヴェシチェンスク 写真館 購入(後日送付) 「府内の景」1枚、「当府より黒竜江をへだてて対岸の支那のサガリン村を望む景」1枚、「黒竜江中の汽船から当府を見た景」1枚(値段は3枚で25ルーブルだったが15ルーブルに値切る。)
9月22日 ハバロフスク アンドレイ・プリュスニン氏 本人の写真1枚
9月22日 ハバロフスク 所長 「ハバロフカ及びヒンガン峡の写真」
9月22日 ハバロフスク 船のカピタン 「ヒンガン峡の風景」「ニコライヱフスク府の新旧二景」「ロシア側の岸に住む満州人の家屋及びアムールのゴリド人、アムールの冬景色」

写真収集では、榎本が写真館を訪れても写真が全くないか、数枚しかなかったり、価格が高額だったりしています。またロシア人は榎本の写真を欲しがり、その返礼として写真をくれたとも書いています。では、実際の日記から紹介してみましょう。

8月9日 、チュメニにて榎本は従者であった銅板技師の大岡金太郎に写真を購入させています。「大岡生に命じて当所の真景一枚を買はしむ。この一枚も写真主の家蔵するものを漸く懇請して得たるなり。」とあり、なかなか譲ってもらえなかったことがわかります。さらに「写真師は目下一軒あるのみ。」とあって、ここで写真を購入しなければという強い気持ちもあったようです。

11日 にはカムエシンスカヤで写真撮影をしていますが、ここでは村人たちとの交流もありました。

明治11年8月11日条 「シベリヤ日記 乙」【榎本武揚関係文書9】の画像
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カムヱシンスカヤと云ふ村にて、羊肉を烹(に)せしめ、午飯を加へ、かつタランタス二輌を並べて写真を取る。本日は日曜なるを以て村中の者大抵皆集来りて囲めり。

明治11年8月11日条 「シベリヤ日記 乙」【榎本武揚関係文書9】

日曜日だったため、食事後に村人がみな集まって榎本達を囲んでいることがわかります。23日には、訪問した写真館の主人がドイツ人であったことや、写真の値段が2枚で15ルーブルであったこと等が記されています。

9月1日にはセレンガ河畔の渡場でギリヤーク人たちを撮影しています。榎本は、セレンガ河畔周辺の人々について、興味をもって写真撮影し、日記にもその様子を綴っています。

明治11年9月1日条 「シベリヤ日記 乙」【榎本武揚関係文書9】の画像
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景色も好きを以て、ブリャックの小屋、婦人、小児らおよび渡場の写真を取る。

明治11年9月1日条 「シベリヤ日記 乙」【榎本武揚関係文書9】

写真を撮った後、榎本は撮影に対して、婦人とロシア正教に入信した者にそれぞれ20コペイカのお礼をしています。

明治11年9月1日条 「シベリヤ日記 乙」【榎本武揚関係文書9】の画像
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写真了りたる后、婦と他の小艾(しょうがい)なるブリャクの女に魯宗にして入りたる者に、各小銀二十コペーキを与へて写真を取らしめし礼とせり。

明治11年9月1日条 「シベリヤ日記 乙」【榎本武揚関係文書9】

7日に訪れたチタ府では、写真師を訪れ写真を買おうとしますが、写真館には1枚もなかったと記しています。榎本がロシア人だけでなく、シベリアの土地で暮らす多くの民族にも注目していることがうかがい知れます。その後10日に砂金場を見学します。写真の収集もさることながら、ここでは鉱物学を修学した榎本ならではの鋭い観察が日記に綴られています。

21日の夕8時頃にはハバロフスクに到着し、土地の名士と写真交換を行い、某船長から風景写真を得たことを最後に写真収集の記録は終わります。

駆け足で榎本の写真収集の記録を見てきましたが、これらの写真の多くは、訪れた都市の風景や人物でした。彼は写真を収集することで、日記には綴れなかった地理やその地域の民族の様子等を記録したかったのかもしれません。百聞は一見にしかずと言ったところでしょうか。これらの写真は当時のシベリアの状況を知るうえで貴重なものだったといえます。しかし、残念なことに現在これらの写真は、ほんの一部を除き、所在は不明です。

榎本は幼少期から培った非凡な語学の才に加え、オランダ留学によって最先端の知識や技術を身に付けました。しかしその幕臣としての輝かしい前途を遮るように起こった明治維新、戊辰戦争によって、一時は罪人として不遇な日々を過ごしました。それでも彼の非凡な才能は、生まれたばかりの新政府には必要不可欠とみなされました。駐露公使の任を終えた榎本は、その後も文部大臣や逓信大臣、枢密顧問官等を務め、爵位まで与えられます。東京農学校(現・東京農業大学)の設立や、地学協会の創立にも関わりました。そして後に、日本写真協会の会長にも就任しています。

参考文献

  • 榎本武揚;諏訪部揚子, 中村喜和編注『榎本武揚シベリア日記:現代語訳』(平凡社ライブラリー;697)平凡社, 2010【GE485-J10】
  • 榎本武揚;講談社編『榎本武揚シベリア日記』(講談社学術文庫)講談社, 2008【GE485-J5】
  • 中薗英助『榎本武揚シベリア外伝』文藝春秋, 2000【KH425-G211】
  • 山口平四郎「榎本武揚の『シベリア日記』(一)」『立命館文學』485/486号, 1985.12【Z22-364】
  • 山口平四郎「榎本武揚の『シベリア日記』(二)」『立命館文學』487-489号, 1986.3【Z22-364】