えのもとたけあき
1836年~1908年
過午四時過頃Dolfijn[イルカ]一尾を釣る。…本邦豆相州辺にて「シイラ」と唱ふ者と全く同物の由、我水夫共等いゝあへり。
燭をもって枕を検ずるに、果して「ワンドロイス」歩き居るを見て急ぎこれを殺し、しかる后寝に就く。時に既に三時頃たり。やや久しくして夢甚煩悩なり。醒て見れば両瞼ホゝと腮[あご]のところを更に三、四ヶ所刺され居たり。予怒に堪へ兼ぬれども「ワンドロイス」のあるを見ず。
十時半、予は当府の写真を買ふため、寺見生と同車して先発す。日耳曼人[ゲルマン人]の写真師某の家にて二枚を買入たり。
午後一時「コミサル」と同車にて、支那領売買城[マイマツチン]に入り、支那の首長を訪ふ。支那と「キャクタ」町家の境は、僅[わずか]に五十尺(サーゼン)の中立地あるのみ。故に恰[あたか]も一府の如し。
さて鎮台の邸に至れば、鎮台は庁前の戸外に出て予を迎へ陸軍楽隊は庁前に並立つ。予が鎮台と共に戸に入りしとき楽起れり。客間に入れば、当府の文武官并二十四五人ばかり一切に駢立[べんりつ]せり。鎮台は一々予に引合せり。
予かねてこの魚の必ず北海道石狩「テシホ[天塩]」等河にも在るべきを思ひ居たるにより、その形を熟視し、かつ背筋通り三条の鱗を数へしに、一条ごとに三十五個ありたり。
年
1862榎本釜次郎渡蘭日記 文久2年11月3日~文久3年2月7日
【榎本武揚関係文書10】
年
1878〔シベリヤ日記 甲〕 明治11年7月26日~8月9日、明治11年9月13日~9月28日、明治11年9月29日~10月2日
【榎本武揚関係文書8】
年
1878〔シベリヤ日記 乙〕 明治11年8月9日~9月13日
【榎本武揚関係文書9】
天保7(1836).8.25東京生まれ。長崎海軍伝習所に学び、文久2(1862).6~慶応3(1867).3オランダ留学、慶応4(1868).1海軍副総裁、五稜郭で官軍に抗し、明治2(1869).5降伏、明治5(1872).3開拓出仕、1873.1開拓中判官、1874.1海軍中将、特命全権公使・ロシア公使館付、1879.11外務大輔兼特命全権公使、1880.2~81.4海軍卿、1881.4予備役、1882.5皇居造営事務局副総裁、1882.8特命全権公使・清国駐箚、1885.12第一次伊藤内閣・黒田内閣逓信大臣、1887.5子爵、1889.3黒田内閣・第1次山県内閣文部大臣、1890.5枢密顧問官、1891.5第1次松方内閣外務大臣、1894.1第2次伊藤内閣・第2次松方内閣農商務大臣、1905.10退役、1908.10.26死去。
(リサーチ・ナビ「榎本武揚関係文書」より)
近代日本人の肖像より