日記から引用した一節を、特定の内容でまとめてご覧になれます。
キーワード:正月
文久3年1月1日(1863年2月18日) 詳しく
午前十時「シャンパン」酒を酌みて礼を為す。嗚蘭人[オランダ人]また臨席相祝す。和蘭水夫その外皆諸同行に向て新年を賀す。
文久3年1月1日(1863年2月18日) 詳しく
一同早朝起出、皆黒の紋付に小袴着用。元旦の式を行ふ。午前十時頃「シャンパン」酒を酌み礼を為。
明治27(1894)年1月1日 詳しく
快晴。午前九時参朝、両陛下に拝謁し、青山御所に参り、皇太后に拝謁、続て東宮殿下に拝謁し、その後各親王に参賀して正午帰邸す。
明治27(1894)年1月1日 詳しく
旅館食堂には電燈をもって、千八百九十四年の文字を青紅色打交へて映出し、光耀燦然美観謂ふはありなし。楽音は洋々として梁塵を浮べ、歓声は殷々として満堂を動かす。羈旅の遊客もまたこの吉辰に遭ひ、互に祝盃を挙げて新年を賀し健康を祝せり。
明治38(1905)年1月1日 詳しく
午前十一時、将校始め奏任官年首の祝儀を述ぶる為め来訪。午後二時、第二軍外国従軍武官一同是又新年祝儀を述べたり。終りて日本流のトソ酒肴を出し宴会を開き、十二分の喜びを尽して夜に入て帰れり。時に午後三四時頃旅順より電報あり、望台を占領せりと。その後続て好報あり、午後十時に到り敵将ステツセール[Анатолий Михайлович Стессель]より開城の申込みありたるとの事なり。それより再び将校以上集会し、盛かんに陛下の万歳を唱へ、兵卒に到る迄皆集り、軍歌をうとうて天地も倒るばかり盛会なりし。
明治40(1907)年1月1日 詳しく
一日、晴。八時祝膳に就く。柳子次郎定子四郎茂章皆な揃ふ。是れ次郎の就官以来始てなり。柳子神拝に出で、次郎は年賀に出づ。余は所労に付、全日在宅。
昭和20(1945)年1月1日 年歯今や三十八。近き次代を背ひ政治を担ふと予想せられる青年たち(特攻隊等に鍛へられた出征学徒軍人)と最早余りにもかけ離れた年令に達したことがわびしく考へられるこの元旦。