長州藩士の外国人襲撃計画 事件 詳しく
前夜萩藩の士十三輩、横浜の異人を討たんとして、生麦村まで出張せしに、この秘密の暴挙を薩藩の士聞得て、土州の老侯に密告せしが、老侯この事を勅使に告られしに早々留むべきとのことを廟堂に達し、長州家に達命せられし故、長州の世子直に同所へ騎切、出張せられ、また土州の藩士も出張し理解して引留たりと。
かつかいしゅう
1823年~1899年
前夜萩藩の士十三輩、横浜の異人を討たんとして、生麦村まで出張せしに、この秘密の暴挙を薩藩の士聞得て、土州の老侯に密告せしが、老侯この事を勅使に告られしに早々留むべきとのことを廟堂に達し、長州家に達命せられし故、長州の世子直に同所へ騎切、出張せられ、また土州の藩士も出張し理解して引留たりと。
初て伏見の顛末[てんまつ]を聞く。会津侯桑名侯ともに御供中にあり。その詳説を問はむとすれども、諸官唯青色、互に目をもってし、敢[あえ]て口を開らく者なし。
戦と不戦と興と廃とに到りて、今日述るところにあらず、乞ふ、明日をもって決せむとすと云。
年
1862海舟日記抄. 一 (文久2年8月~文久3年9月)
【勝海舟関係文書133-1】
年
1863海舟日記抄. 二 (文久3年9月~元治元年10月)
【勝海舟関係文書133-2】
年
1863海舟日記抄. 三 (元治元年10月~慶應2年10月)
【勝海舟関係文書133-3】
年
1868海舟日記抄. 四 (明治元年正月~3月)
【勝海舟関係文書133-4】
年
1868海舟日記抄. 五 (明治元年3月~明治2年8月)
【勝海舟関係文書133-5】
年
1869海舟日記抄. 六 (明治2年8月~明治3年6月、慶應3年6月~明治4年正月)
【勝海舟関係文書133-6】
文政6(1823).2.11東京生まれ。旗本勝小吉の長男、名は義邦のち安芳、通称麟太郎、海舟は号。蘭学を修め、長崎海軍伝習所に学ぶ。安政7(1860).1~5咸臨丸艦長として渡米、万延元(1860).6蕃書調所頭取助、文久元(1861).9天守番之頭格・講武所砲術師範役、文久2(1862).7二丸留守居格・軍艦頭取、文久2.閏8軍艦奉行並、元治元(1864).5軍艦奉行・作業奉行格諸太夫・安房守、元治元.10免職、慶応2(1866).5軍艦奉行、慶応4(1868).1海軍奉行並、陸軍総裁、明治2(1869).12、明治5(1872).5海軍大輔、1873.10~75.4参議兼海軍卿、1875.4~11元老院議官、1887.5伯爵、1888.4枢密顧問官、1899.1.19死去。
(リサーチ・ナビ「勝海舟関係文書」より)
近代日本人の肖像より