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キーワード:事件
万延元年5月5日(1860年6月23日) 詳しく
噴火山を東北に見、十時浦賀港に下碇す。聞くに、過る三月三日大老職井伊公登城の途、外桜田において浪士のため殺害せられ、午後浪士等攘夷を主張し、外国人を襲わんとするの催あるとし、騒然たりと。
文久2年11月19日(1863年1月8日) 詳しく
前夜萩藩の士十三輩、横浜の異人を討たんとして、生麦村まで出張せしに、この秘密の暴挙を薩藩の士聞得て、土州の老侯に密告せしが、老侯この事を勅使に告られしに早々留むべきとのことを廟堂に達し、長州家に達命せられし故、長州の世子直に同所へ騎切、出張せられ、また土州の藩士も出張し理解して引留たりと。
文久3年9月6日(1863年10月18日) 詳しく
天の辻え御着陣。しかる処追々寄手紀州勢吹口より進、藤堂勢五条え本陣を構え、和田口より押し寄る。井伊勢下市え本陣を構え泥川道より進む。その外郡山高取など数千の大軍所々え屯陣[とんじん]罷在[まかりあ]り、迚[とて]も急に打破らん事六ケ舗故に、天の辻より二里斗[ばかり]北五條の方え進、ホクツキ[付箋北曽木の誤り]と云処要害の地に因て暫く対陣合戦し敵を悩まし、その都合によって打出んとの軍議にて、上田宗児、半田門吉、十津川鎮撫義兵招募の命を蒙[こうむ]り罷越[まかりこし]、婦人小供は安心して農事を助けて百姓は人夫外は他を顧みず農事出精を勧め、郷士の勇者は早々天の辻出陣の由申聞、頻りに周旋せり。
明治28(1895)年3月24日 李鴻章狙撃せられ疵の深浅分らず。直ぐ石黒、佐藤を差越されよ。
明治33(1900)年8月18日 詳しく
十時参部、北京を取りたる電信海軍え達す。去十五日夕刻と云事なり。未だ陸軍には何たる報知も来らず。
明治42(1909)年10月26日 詳しく
暫くして電話あり。事実らしく思はる。これより参謀本部に行き、取調らぶと。余もまた心に掛るをもって、車を命じて陸軍大臣を訪ふ。後藤新平、大島健一あり。始めて事実を詳[つまび]らかにす。今朝九時、哈爾賓[ハルビン]停車場において、韓人四五名に扭撃せられ、二重傷を蒙[こうむ]り十一時薨去せり。
明治43(1910)年5月19日 詳しく
哈勒[ハレ―]彗星、十九日太陽面通過。…人皆な彗星の太陽通過を見んと欲し、烟じたる玻璃板をもって太陽を望見するも、一[ひとつ]も目に触るゝものなし。
大正3(1914)年1月29日 詳しく
紅葉館に商工調査委員を招待す。今日衆議院本議場にて、シーメンス事件の質問あり。世論囂々[ごうごう]たり。プーレー氏取調を受く。
大正7(1918)年4月28日 詳しく
Sibeの事情悪くなる。英米とも過激派に通じて利権を得る事を勉む。米国より提案して日本にて出兵の場合に、大部隊を出す時米国の兵を参加せしむるや否や。
大正7(1918)年8月26日 詳しく
政府の物価、殊に米価調節に干[関]する措置は、好結果を見ざりしうらみあり。
大正10(1921)年11月4日 詳しく
原首相、午後七時二十五分東京駅にて暗殺の報を聞き、総理大臣邸に立寄る。野田逓相、浅田徳則等在り。帰路金子子爵邸に立寄り、兇変を告げ善後策を談ず。犯人は中岡艮一。(十九才、東京大塚駅ポイントメン)。
昭和5(1930)年11月14日 詳しく
午前九時発「燕」号にて出発の間際[まぎわ]、八時五十七分東京駅プラットフオ-ムにおいて、佐郷屋留雄[さごうやとめお]なる一青年の為、モーゼル式拳銃をもって狙撃せられ、弾丸下腹部に命中、重傷を負ふ。
昭和7(1932)年5月15日 詳しく
今夕五時半、首相官邸において首相兇手に倒る。十一時半薨去。陸海軍将校、候補生十八名一団。夜九時、私邸弔問。
昭和11(1936)年2月26日 詳しく
雪。今朝七時半頃、警務課より電話、首相、内大臣、侍従長、蔵相、教育総監、青年将校軍隊の襲撃を受け、即死または重傷の由。
昭和21(1946)年5月4日 詳しく
臥てゐると十時半頃安達君から鳩山氏追放の発表をしらせて来た。急いで東京へ出る準備をした。柳原君スミ子と共に午后一時半官邸に行く。来客に接し鳩山邸へ。ついで本部の代議士会に行く。
昭和24(1949)年7月7日 詳しく
七月六日午後、ラヂオは国鉄総裁下山氏が今朝家を出たなり行衛[行方]不明だと放送したが、七日朝に至り、同氏の惨死体が東北線綾瀬駅附近の鉄道線路に発見されたと報じた。国鉄では両三日前より人員整理を発表し、組合との間に団交を開始してゐたが、元より妥協点に達せず。国鉄側は交渉を打切り整理を発表したのであったが、その結果遂にこの惨事を見るに至ったのである。