宮島誠一郎
明治21(1888)年3月30日
一説に黒田一旦伊藤に代り総理を受べしと言ひ、再び辞し候時は、政府にても愕然たりし由。仍[よっ]て三島折田両人より黒田に論ぜしに、黒田は両人に中裁を托したり。遂にその中裁に依て総理に就職せり。黒田の不決断は十八年に右大臣任不任の時に同じと言ふ。
伊藤博文は憲法制定に専念するため、首相を辞して枢密院議長に転じることになりました。後任として推薦されたのが黒田清隆でした。宮島は黒田が、明治18(1885)年の右大臣任命の時と同様に、受諾と辞退で揺れ動いている様を不決断と記しています。