明治14(1881)年8月28日
東洋大日本国国憲按を草す
詳しく
二十八日、小島稔来訪。大風雨幽居。日本国憲法を草す。二十九日、大風雨。幽居。日本憲法を草す。
明治14(1881)年8月28日
二十八日、小島稔来訪。大風雨幽居。日本国憲法を草す。二十九日、大風雨。幽居。日本憲法を草す。
明治18(1885)年3月16日
午後六時半、李相道台[どうだい]及び通弁を携帯し来る。食後使事を談ぜんと欲し、別室に誘引し余先づ彼に告曰く、聞く所に拠れば、閣下全権委任を受たりと、果し[て]しかれば、余実に欣躍に堪へず、しかるに全権大使の任、必ず先づその国都に入り皇帝に謁を請ひ、携帯する所の国書を捧呈せざるを得ざるの職務あるをもって、節をこの地に駐ずるを得ざるをもってす。李曰、我皇帝尚幼沖[ようちゅう]にあるをもって外国の使臣に接せずと。余又曰、皇帝幼沖にして引接に便ならざる、皇太后垂簾[すいれん]政務を執る、帝に代て謁を賜ふも可なり。李曰、我国風婦女子外人に接せず、閣下能[よ]くこれを知るべしと。
明治20(1887)年10月8日
〇九時停車場より発車す。〇車中三人の懺悔[ざんげ]話あり。奇極る。例により森最も多罪、石黒これに次ぎ、谷口割合に少なり。
明治21(1888)年1月13日
〇午後六時半谷口森江口を招き、山口と共に独乙[ドイツ]テアートルに赴き、十一時帰宅す。Götz von Berlichingen mit der eisernen Hand. Schauspiel in 5 Aufzügen von Goethe. Pittschau男, Geszner女, Pospischil女.
明治21(1888)年1月14日
晴。午後ルーブル宮殿を縦覧す。
明治21(1888)年3月4日
小生一時頃より丸木写真師方に至り、祝うべき両君の写真を五枚づゝ復写せしむ。四五日間にて出来する由なり。それより二葉町に至り牛肉を買ひ、銀坐[銀座]林屋に参り、黒井悌二郎君へ依頼に依て油絵類を送る。運賃二十六銭なり。御祖母様の煙草を買ひ、それより日本橋区新大坂町兄方に至り病を訪ふ。兄全快せり。帰途岩佐に至り大八殿の祝詞を持ち行く。肴[さかな]及菓子を買て帰る。午後六時なり。
明治21(1888)年3月30日
一説に黒田一旦伊藤に代り総理を受べしと言ひ、再び辞し候時は、政府にても愕然たりし由。仍[よっ]て三島折田両人より黒田に論ぜしに、黒田は両人に中裁を托したり。遂にその中裁に依て総理に就職せり。黒田の不決断は十八年に右大臣任不任の時に同じと言ふ。
明治21(1888)年7月5日
〇車中、森はその情人の事を語り、為に愴然たり。後互に語なくして仮眠に入る。
明治21(1888)年7月27日
〇今夕多木子報曰、その情人ブレメンより独乙[ドイツ]船にて本邦に赴きたりとの報ありたりと。
明治21(1888)年11月8日
午前八時より旅寓を出て、愛宕郡今熊野村泉涌寺に到り、先帝の御陵に参拝し、還て霊明殿を拝して同寺に小憩し、出て霊山招魂社の木戸公の墓に請じ、帰途八坂神社を過ぎて途次美工商社に立寄り、物産を覧て知恩院に至りて帰寓す。
明治21(1888)年11月13日
北垣知事先導して琵琶湖疏水工事を巡覧す。該工事は京都府民の負担にして、琵琶湖の水を京都に疏して、大に工業を振起し傍ら物貨を通運する計画にて、北垣知事物議を排し熱心これに当る。明治十八年工を起し、二十二年十二月を期し竣功を告げんとす。費額予算凡百二十五万円、大津三井寺[みいでら]の右傍より官道の右に沿ひ開鑿せしものにて、隧道[すいどう]五ヵ所あり。全体の工事過半を竣す。