国立国会図書館憲政資料室 日記の世界

1880年代の日記より

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主なできごと

1881年10月11日
明治14年の政変
1881年10月18日
自由党結成
1882年3月14日
伊藤博文、憲法調査のため欧州へ出発
1882年4月16日
立憲改進党結成
1884年12月4日
甲申政変、朝鮮で発生
1885年4月18日
天津条約締結(李・伊藤条約)
1885年12月22日
内閣制度創設(初代総理大臣伊藤博文)
1889年2月11日
大日本帝国憲法発布
1889年2月12日
黒田清隆総理大臣、超然主義演説

明治14(1881)年8月28日

東洋大日本国国憲按を草す 
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二十八日、小島稔来訪。大風雨幽居。日本国憲法を草す。二十九日、大風雨。幽居。日本憲法を草す。

明治15(1882)年4月1日

布哇(ハワイ)王国での歓迎  外交 海外
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食畢[おわっ]て庭前へ皇帝陛下、本使初めを御誘引にて、大樹の蔭に到らる。…婦人三人男子一人、皆白衣、紅の短袴を着して立て踊る。婦人三人は互に手を連結して回り舞、男子は三婦にかかわらず左右の手を翻して踊る。右畢[おわっ]て音楽数回これあり。この見物中酒及煙草等時々下され、頗[すこぶ]る鄭重なる御饗応にて、午後五時帰館。

明治18(1885)年3月16日

幼帝への国書捧呈の行方  外交 海外
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午後六時半、李相道台[どうだい]及び通弁を携帯し来る。食後使事を談ぜんと欲し、別室に誘引し余先づ彼に告曰く、聞く所に拠れば、閣下全権委任を受たりと、果し[て]しかれば、余実に欣躍に堪へず、しかるに全権大使の任、必ず先づその国都に入り皇帝に謁を請ひ、携帯する所の国書を捧呈せざるを得ざるの職務あるをもって、節をこの地に駐ずるを得ざるをもってす。李曰、我皇帝尚幼沖[ようちゅう]にあるをもって外国の使臣に接せずと。余又曰、皇帝幼沖にして引接に便ならざる、皇太后垂簾[すいれん]政務を執る、帝に代て謁を賜ふも可なり。李曰、我国風婦女子外人に接せず、閣下能[よ]くこれを知るべしと。

明治20(1887)年10月8日

汽車の中の反省会  海外
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〇九時停車場より発車す。〇車中三人の懺悔[ざんげ]話あり。奇極る。例により森最も多罪、石黒これに次ぎ、谷口割合に少なり。

明治21(1888)年1月13日

石黒のドイツでの観劇  海外
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〇午後六時半谷口森江口を招き、山口と共に独乙[ドイツ]テアートルに赴き、十一時帰宅す。Götz von Berlichingen mit der eisernen Hand. Schauspiel in 5 Aufzügen von Goethe. Pittschau男, Geszner女, Pospischil女.

明治21(1888)年1月14日

樺山資紀、ルーブル宮殿に行く  海外
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晴。午後ルーブル宮殿を縦覧す。

明治21(1888)年2月11日

43歳の誕生日に  海外 誕生日
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本日は我が誕生日にしてこれを算ずれば、余弘化二年乙巳二月十一日をもって奥州梁川の陣屋に生れ、夙[つと]に両尊を失し、流離艱難苦学刻志、遂に朝に仕へて纔[わずか]に十夫の長たるも、事業の世に著きものなく碌々[ろくろく]今に至る。今明治二十一年戊子二月十一日にて齢[よわい]を重ぬる事四十三年、人世を五十年とすれば既に纔に余すもの七年、既往をもって後年を徴すれば七年間になし得べき事業果して如何ぞや。

明治21(1888)年3月4日

新橋、銀座、日本橋で買い物  娯楽
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小生一時頃より丸木写真師方に至り、祝うべき両君の写真を五枚づゝ復写せしむ。四五日間にて出来する由なり。それより二葉町に至り牛肉を買ひ、銀坐[銀座]林屋に参り、黒井悌二郎君へ依頼に依て油絵類を送る。運賃二十六銭なり。御祖母様の煙草を買ひ、それより日本橋区新大坂町兄方に至り病を訪ふ。兄全快せり。帰途岩佐に至り大八殿の祝詞を持ち行く。肴[さかな]及菓子を買て帰る。午後六時なり。

明治21(1888)年3月30日

黒田総理誕生秘話 
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一説に黒田一旦伊藤に代り総理を受べしと言ひ、再び辞し候時は、政府にても愕然たりし由。仍[よっ]て三島折田両人より黒田に論ぜしに、黒田は両人に中裁を托したり。遂にその中裁に依て総理に就職せり。黒田の不決断は十八年に右大臣任不任の時に同じと言ふ。

明治21(1888)年7月5日

森林太郎、愛の別れ 海外
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〇車中、森はその情人の事を語り、為に愴然たり。後互に語なくして仮眠に入る。

明治21(1888)年7月27日

森林太郎、愛の行方  海外
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〇今夕多木子報曰、その情人ブレメンより独乙[ドイツ]船にて本邦に赴きたりとの報ありたりと。

明治21(1888)年11月8日

京都での参拝 
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午前八時より旅寓を出て、愛宕郡今熊野村泉涌寺に到り、先帝の御陵に参拝し、還て霊明殿を拝して同寺に小憩し、出て霊山招魂社の木戸公の墓に請じ、帰途八坂神社を過ぎて途次美工商社に立寄り、物産を覧て知恩院に至りて帰寓す。

明治21(1888)年11月13日

琵琶湖疏水工事を見学  経済
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北垣知事先導して琵琶湖疏水工事を巡覧す。該工事は京都府民の負担にして、琵琶湖の水を京都に疏して、大に工業を振起し傍ら物貨を通運する計画にて、北垣知事物議を排し熱心これに当る。明治十八年工を起し、二十二年十二月を期し竣功を告げんとす。費額予算凡百二十五万円、大津三井寺[みいでら]の右傍より官道の右に沿ひ開鑿せしものにて、隧道[すいどう]五ヵ所あり。全体の工事過半を竣す。