国立国会図書館憲政資料室 日記の世界

宮島誠一郎

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宮島誠一郎の肖像写真

宮島誠一郎

みやじませいいちろう
1838年~1911年

宮島誠一郎の日記について

この電子展示会で見られる日記の概要

  • 宮島誠一郎の嘉永3(1850)年13歳から1911年74歳で亡くなるまでの日記。年によって欠あり。
  • 幕末から明治維新の米沢藩の動向を記すものや、明治政府内の状況や外交等を記すものあり。

宮島誠一郎の日記より

文久3年1月17日(1863年3月6日)

江戸に到着 
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早暁発足。千住定宿中田屋吉右衛門に着し、旅装相改め、大夫の駕に随従し到処繁華驚目、上野山下より八代洲河岸[やよすがし]を過、巳の半刻櫻田に着す。
文久3年1月23日(1863年3月12日)

出水につき舟留 
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大風雨、暁発。馬入川出水にて舟留に相成り、一時間ばかり路上に野陣。その後雨晴出船。
文久3年1月29日(1863年3月18日)

大井川 
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この大堰川は川源を信州に発し、南風の時は水俄に増し、西北風の時より落水、水色常に白色を帯びて濁るなり。遠駿の界川なり。渡頭古[いにしへ]より舟橋を用[い]ず、島田金谷より人夫を出し肩輿を用て旅人を渡す。川原開豁北岸より南岸迄十八町これ有り。
明治元年9月6日(1868年10月21日)

東北各藩の混迷  戊辰戦争
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各藩兵結束して福島に会す。米沢本陳より坂蘭渓自ら諸陳を巡り、百方これを説諭し解兵せしむ。諸陣これを肯んぜず。蘭渓、人をして庭坂の本陳に告げ、各藩議論蜂起兵力をもってこれを脅すに非れば、制馭[せいぎょ]すべからず。急々見兵を尽して福島に至るべし。
明治6(1873)年2月27日

日清修好条規に向けた副島の清国派遣  外交
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外務卿副島種臣をもって特命全権大使と為し、清国に派遣せしむ。大丞柳原前光、少丞平井希昌、訳官鄭永寧をしてこれに属す。
明治10(1877)年2月12日

太政官出仕時代 
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出勤。本局書記官連中と上野三河亭に会す。
明治21(1888)年3月4日

新橋、銀座、日本橋で買い物  娯楽
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小生一時頃より丸木写真師方に至り、祝うべき両君の写真を五枚づゝ復写せしむ。四五日間にて出来する由なり。それより二葉町に至り牛肉を買ひ、銀坐[銀座]林屋に参り、黒井悌二郎君へ依頼に依て油絵類を送る。運賃二十六銭なり。御祖母様の煙草を買ひ、それより日本橋区新大坂町兄方に至り病を訪ふ。兄全快せり。帰途岩佐に至り大八殿の祝詞を持ち行く。肴[さかな]及菓子を買て帰る。午後六時なり。
明治21(1888)年3月30日

黒田総理誕生秘話 
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一説に黒田一旦伊藤に代り総理を受べしと言ひ、再び辞し候時は、政府にても愕然たりし由。仍[よっ]て三島折田両人より黒田に論ぜしに、黒田は両人に中裁を托したり。遂にその中裁に依て総理に就職せり。黒田の不決断は十八年に右大臣任不任の時に同じと言ふ。
明治29(1896)年3月29日

登院閉院式  帝国議会
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登院閉院式。十二時赤坂離宮にて内閣総理より宴会。
明治29(1896)年5月14日

大久保利通の十九年忌 
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大久保侯十九年忌参拝。本野盛亨より頼醇の軸を。皇女拝祝。
明治31(1898)年6月10日

民法典論争の終結  帝国議会
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議会開会九時出院、伊藤総理演説好し。民法施行法案継続の案否決。民法通過。衆議院増税案否決議会解散。午後三時黒田宅に行く。
明治35(1902)年2月15日

日英同盟 成立 外交
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日英同盟成立の為め英公使館を訪ひ祝す。又清国公使蔡鈞を訪談話。外務小村、総理桂の官舎を叩く。

宮島誠一郎の日記一覧 (国立国会図書館デジタルコレクション収録分のみ)

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