浜口首相の慰問決議 帝国議会 詳しく
浜口首相遭難に対する慰問決議をなしては如何[いかん]との議あり。(小山副議長よりの申出ならん)。前例としては、伊藤公遭難の際の一例あり。
おおきみさお
1891年~1981年
浜口首相遭難に対する慰問決議をなしては如何[いかん]との議あり。(小山副議長よりの申出ならん)。前例としては、伊藤公遭難の際の一例あり。
今夕五時半、首相官邸において首相兇手に倒る。十一時半薨去。陸海軍将校、候補生十八名一団。夜九時、私邸弔問。
Nazisは全員BraunのUniformに革のBandで入場着席。とても壮観偉観だ。しかも三分の一以上を占める優勢ぶり。
六十七議会専用庁舎図書館本建築を、憲法発布五十年紀念事業として予算をとるの件は、決議案可決ありたるも、十一年分としては主計局として内交渉の結果要求せざることとす。
雪。今朝七時半頃、警務課より電話、首相、内大臣、侍従長、蔵相、教育総監、青年将校軍隊の襲撃を受け、即死または重傷の由。
四時少し過ぎ、大総統(Führer)Hitler氏幕僚を随[したが]へ入場。花わ一斉に手を揚げHeil-Hitlerを叫ぶ。各国々旗掲揚。Olympiaglockeを鳴らす。かくして各国選手の入場式始まる。…日本は二十五六番目(中央)に大島旗手を先頭に堂々と入場。
相模行、みぞれ交りの雨中、一ラウンドす。帰途、昭和館にてモダーンタイムス見物。
議長は懲罰委員会に自発的に出席することに決定、その旨各派に通知。
交渉会にて、劈頭上程の聖戦目的貫徹の決議案趣旨弁明者に町田氏にては不可との議出で紛糾す。
九時前登院。議会開設五十年式典。陛下行幸。単独拝謁を賜はる。無上の光栄、感激深し。式次第滞りなく終了。
午後零時過より淑子を伴ひ三越にゆき、特別食堂にて食事。祥子の初節句に付お雛様を見る。高島屋にゆき恰好のものを見付ける。直に購入、官舎へ届けさせる。
今朝八時過空襲警報あり。南鳥島附近迄、米航空母艦より出たる航空機三十機来襲の由。内七機撃墜、後は撃退。
サイパン島玉砕[ぎょくさい]の事実、敵愾心を煽る。玉砕に対し黙祷。最前線の覚悟、戦意を失ふな。本土を守れ。
十二時過再び警報出で、忽[たちま]ち爆音高射砲音近辺に聞え空襲警報出づ、…後から後から続々と少数機にて侵入し来る。官舎門前に在りて暫し形勢観望したるも、事態容易ならず、しかも議事堂東側に極めて近接して猛火揚がるを見るに及び、車を命じて議事堂に馳けつける。通用門閉じありしも、運転手乗り越えこれを開き進む。時に一時頃。直ちに屋上に登り都内を見るに、足下の司法省、警視庁附属家等炎々と燃えてる最中なり。…
正午十分前、大塚君より電話、伯林[ベルリン]におけるヒトラー総統は、無条件降伏を為す事を決意し、四十八時間以内に通告するとの通信あり。
青山赤坂方面より火勢強く、防空壕に一時待避して居たが危険に付、小林君の官舎を捨てて、十二時頃家族一同小熊の自動車にて脱出する。議会正門横にて下車登院、院内騒然。
正午過、岡田厚相来訪。広島に原子爆弾を六日午前八時半頃投下。十数万の死傷の趣、大塚地方総監爆傷死、畑元帥健在、高野知事は出張中にて救かる。成層圏より落下傘にて投下、地上二、三百米[メートル]にて爆裂、直径四キロ全壊全焼、ヱライことなり。
阿南陸相は、大東亜戦は国力全体の戦ひであるから、国家の決心に従ふのみ。但し軍は無条件降伏には承服し難し。武装解除したる後がこわい。何をされるか判らぬ。勿論現在の状勢に加ふるに、ソ連を更に敵に廻はし、原子爆弾を相手とするのでは、算盤[そろばん]上勝てぬことは明白。但し、英米に対して最後の一戦を試み、大打撃を与へることは充分の確信あり。
正午、予算委員室にて、正副議長、余及全職員並[ならびに]居合せたる議員と共に、ラヂオを謹んできく。詔書を宣らせ賜ふ。玉音に、頭[こうべ]垂れ悲憤の涙抑へ難し。しかしこの恨みは何れは霽[は]らさむ。
年
1930第五十八回議会(特別)議場日誌 昭和5年4月~5月13日他
【大木操関係文書182】
年
1930〔第五十九回議会議場日誌〕 昭和5年12月19日~昭和6年3月27日
【大木操関係文書183】
年
1931第六十回議会、第六十一回議会、第六十二回議会 議場日誌 昭和6年12月11日~昭和7年6月14日
【大木操関係文書184】
年
1932昭和七年六月渡欧日誌 昭和7年6月12日~9月25日
【大木操関係文書180-1】
年
1932昭和七年六月渡欧日誌 昭和7年
【大木操関係文書180-2】
年
1932〔議場日誌 第六十四回議会〕 昭和7年12月21日~昭和8年3月25日
【大木操関係文書185】
年
1932手帳 昭和七年 昭和7年
【大木操関係文書187】
年
1933〔議場日誌 第六十五回議会〕 昭和8年12月23日~昭和9年3月25日
【大木操関係文書186】
年
1935手帳 昭和十年 昭和10年
【大木操関係文書188】
年
1935〔衆議院手帖日記写 昭和10年1月~17年12月〕 昭和10年1月~昭和17年12月
【大木操関係文書203-1】
年
1936昭和十一年渡欧日記 前篇 昭和11年5月30日~9月10日
【大木操関係文書181-1】
年
1936昭和十一年渡欧日記 後篇 昭和11年9月11日~10月14日
【大木操関係文書181-2】
1891.10.19東京生まれ。1917.3東京帝国大学法科卒。1918.4会計検査院書記、1923.1会計検査院書記官、1923.9衆議院書記官、1925.4委員課長、1930.4議事課長兼警務課長、1934.7兼調査課長、1938.4衆議院書記官長、1945.10依願免本官、1945.10~47.5貴族院議員、1947.6~50.2東京都副知事、1981.8.13死去。
(リサーチ・ナビ「大木操関係文書」より)