さかたによしろう
1863年~1941年
大正博覧会東京市特別館の工事を見る。
紅葉館に商工調査委員を招待す。今日衆議院本議場にて、シーメンス事件の質問あり。世論囂々[ごうごう]たり。プーレー氏取調を受く。
正午日独国交断絶、…世界は大変、成敗は大人物の出現するや否に存す。予想、欧洲大激戦は九月中一段落、その後は局部戦となり本年内に平和回復のこと、但国土分配に付、再び破裂するや否は知るべからず。
汽車中、山間森林を通過す。景色よし。人気質朴一般に露国[ロシア]より富有に見ゆ。
原首相、午後七時二十五分東京駅にて暗殺の報を聞き、総理大臣邸に立寄る。野田逓相、浅田徳則等在り。帰路金子子爵邸に立寄り、兇変を告げ善後策を談ず。犯人は中岡艮一。(十九才、東京大塚駅ポイントメン)。
年
1881旅行日記 明治14年7月
【阪谷芳郎関係文書735】
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1884家庭日記 第一号 明治17年7月1日~明治19年12月31日
【阪谷芳郎関係文書667】
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1887家庭日記 第二号 明治20年1月1日~明治24年7月31日
【阪谷芳郎関係文書668】
年
1891家庭日記 第一号 明治24年8月1日~明治30年12月31日
【阪谷芳郎関係文書669】
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1898家庭日記 第二号 明治31年1月1日~明治37年12月31日
【阪谷芳郎関係文書670】
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1899日記(明治32年) 明治32年
【阪谷芳郎関係文書734】
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1905家庭日記 第五号 明治38年1月1日~明治42年12月31日
【阪谷芳郎関係文書671】
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1910家庭日記 第六号 明治43年1月1日~明治45年3月15日
【阪谷芳郎関係文書672】
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1911万国平和財団経済会議日記 明治44年
【阪谷芳郎関係文書736】
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1912東京市長日記 第1巻 明治45年6月~大正2年2月10日
【阪谷芳郎関係文書737】
年
1912明治45年手帖 明治45年
【阪谷芳郎関係文書746】
年
1913家庭日記 No.7 大正2年2月11日~大正2年6月25日
【阪谷芳郎関係文書679】
文久3(1863).1.16岡山生まれ。阪谷朗盧の子、渋沢栄一の女婿、1880東京大学予備門卒業、1884.7東京大学文学部政治学理財学科卒業、1884.7大蔵省入省、1897.4主計局長、1903.12大蔵次官、1906.1~08.4第1次西園寺内閣大蔵大臣、日露戦争時の財政経営・戦後の財政再建に手腕を発揮した。1907.9男爵、1912.7~14.2東京市長、1916.4連合国政府経済会議特派員長、1917.1貴族院議員、1918.3中国政府より幣制改革につき招聘を受ける、その後各種団体の会長を務め、1941.11子爵、1941.11.14死去。
(リサーチ・ナビ「阪谷芳郎関係文書」より)