国立国会図書館憲政資料室 日記の世界

貴族院と日記
――明治期を中心に

日記で読む政治史

小林 和幸(青山学院大学文学部教授)

はじめに

帝国議会は、国民の代表を選挙で選ぶ衆議院と、衆議院とは全く異なる構成の貴族院からなる。貴族院は、衆議院・政党の意思を阻害したとして、「藩閥政府の牙城」などと語られることが多い。しかし、貴族院関係者の日記・書翰や議事録などの諸史料を検討すると、貴族院の多様な側面が見えてくる。以下では、明治期を中心に、日記などからわかる貴族院について概観する。

1.貴族院の構成

まず、貴族院の構成や基本的な性格について述べておきたい。貴族院は、皇族、華族、勅任された議員で構成される。皇族議員は、成年皇族男子の全員(ただし、法案等を審議する議場に出席しない慣例)、華族議員は、公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の華族を議員とするもので、公・侯爵議員は、世襲で終身、伯・子・男爵議員は、同爵間の選挙(任期7年)で選ばれたものが就任した。勅任議員としては、国家に勲労あり又は学識ある者が勅任される「勅選議員」(終身。官僚経験者、司法関係、軍人、学者などで、基本的に内閣が推薦する。政党内閣期には政党系列の議員が増えた)、ならびに「多額納税者議員」として各府県の多額の直接国税を納める者15人から1人を互選し勅任された者(任期7年)であった。なお、大正14(1925)年の改正で、帝国学士院互選議員が加えられ、多額納税者議員の互選資格も拡張されている。

枢密院における貴族院令の審議で、議長を務めていた伊藤博文が、「上院ノ組織ニ於テハ、原案起草者ハ英国ノ制度ニ流涎シテ止マザル者ナリ」(「枢密院会議筆記」(1)、明治21年12月14日)と述べている通り、憲法起草者はイギリス上院制度を貴族院の理想と位置づけている。イギリス立憲政治が安定した王室の背景となっているとの理解によるものであろう。日本の華族、貴族院にも皇室の擁護者(「皇室の藩屏」)となることを期待した。

ただし、このことは、ただちに貴族院は政府の擁護者であることを意味しない。例えば、貴族院の代表的な論客であった谷干城や近衛篤麿、曾我祐準(そがすけのり)は、政府と皇室は別であるから、華族は皇室の藩屏として、中立的公平な立場で、藩閥政府の失政をも匡正すべきと、主張している(小林『明治立憲政治と貴族院』)。

また、伊藤博文は明治憲法の解説書である『憲法義解』(2)の中で、貴族院について「政党の偏長を制」すると共に、「国福民慶を永久に維持する」との役割を示している。そのため、貴族院は特にその独立性の確保に配慮されていた。政党勢力からの独立という点では、貴族院に政党的組織は”公認”されず、政党勢力の侵入を警戒した。また、その組織を規定する「貴族院令」は勅令で定められており、改正に衆議院の介入を許さず、貴族院の議決が必要と規定されていたため、政府の意のままともならなかった。衆議院と異なり解散も無く、貴族院は、強固な独立性を有する強力な議事機関であり、その権限の行使によっては、衆議院を制約し得るだけではなく政府の存続を左右し得た。近代日本の立憲政治下では、円滑な議会運営のためには、政府は、衆議院で政党と提携するだけでなく貴族院の抵抗を押さえることが必要であった。

貴族院は、「貴族院衆議院」とされる呼称の順、玉座を備え天皇親臨の開院式等の場として貴族院が使われるなど、名目上は、衆議院よりも上位者として位置づけられているが、貴族院の一般の権限は、衆議院と対等であり、衆議院より優越する権限はなく、予算の先議権(議案を先に審議する権利)も、衆議院に譲っていた。

以下では、いくつかの日記を通じて、明治期を中心に貴族院の活動を振り返ってみたい。

2.日記から見る明治期の貴族院

貴族院議場の写真
貴族院議場(第2次仮議事堂)
『貴族院会派<研究会史>明治大正篇』【AZ-244-M1】 貴族院の議席は、皇族を首席とし、次に爵位を有する者の爵位順とされていた。皇族は議案審議には出席しないので、最前列は空席となっている。

帝国議会が開幕すると、衆議院は、政府と政党との抗争の場となった。自由党と改進党の「民党」が多数派を形成し、民力休養(地租軽減)のために、大幅な予算削減を求めたのである。第1次山県有朋内閣は、民党の切り崩しと妥協によって、約630万円の削減で衆議院通過を見た。この予算案は貴族院に送付されたが、予算の成立を目指す政府は、衆議院送付案をそのまま貴族院で可決することを求めた。しかし、不十分な審議のままでの予算追認は、貴族院の予算審議権の喪失につながるとして、異論が出た。貴族院内に、政府の意向を重視するか貴族院の独立した審議を重視するかという攻防が起きたのである。これは、衆議院と政府の妥協案の通過で決着を見る。国際社会が見守る中で、第1議会を成功させるという意思が貴族院にも働いたのである。ただし、はやくも政府から独立した審議を行おうとする議員が存在感を示したことは、政府は貴族院を楽観視することはできないことも明白にした。

こうした貴族院内の政治状況は、貴族院内の政治的な会派の濫觴につながる。帝国議会開設から日清戦争までのいわゆる初期議会期においては、貴族院の主たる母体となる華族の集会所「華族会館」の日誌である『華族会館誌』(3)が、貴族院内会派についての記述が比較的に豊富である。

『華族会館誌』には、たとえば、近衛篤麿・二条基弘が設立した「月曜会」(財政攻究会を改称)の規約(明治24年3月18日条)や華族会館での会合が記され、同じく近衛と二条が中心となった「三曜会」についても明治24(1891)年4月24日以降、会合が記録されている。

第2議会、谷干城により「施政ノ方針ニ関スル建議案」(いわゆる「勤倹尚武ノ建議案」、「勤倹富強ノ建議案」)が提出されるが、この建議案への賛否を契機に政治会派の存在が明白になった。第1次松方正義内閣は、この建議案を政府が進める財政運営の積極主義に反対し、衆議院民党の予算削減の主張と通ずるものと認識して、その可決阻止に動いた。政府側は、政治会派「研究会」を政府支持にまとめる働きかけを行い、その結果、この建議案は78対97の僅差で否決される。谷らは、ちょうどこの頃政治会派「懇話会」を設立し、三曜会と結束を深める。金子堅太郎が伊藤博文に送った書翰には、谷らの会派を、貴族院における「民党」、一方政府支持派の研究会を「吏党」と伝えている(明治24年12月20日付伊藤博文宛金子堅太郎書翰、『秘書類纂 帝国議会資料』所収)。また、松方内閣は、貴族院に政府支持派を形成するため明治24(1891)年12月22日、18名の勅選議員を任命した。これが後の官僚系会派「茶話会」の基礎となる。

『華族会館誌』には、研究会の会合の記録もあり、伊藤博文配下の伊東巳代治が起草したとされている「研究会主趣書(趣意書)」も掲載されている(明治25年2月25日条)。研究会は、政党からの独立という「非政党主義」が特徴であり、強い会員拘束規定を持ち、幹部が統制する力が強かった。こうした性格は、懇話会・三曜会が議員個人の独立を許容したことと異なっていた。

この後、第3議会において、第2回衆議院議員選挙で行われたいわゆる「選挙干渉事件」を非難する建議案を、懇話会・三曜会が中心になり提出する。松方内閣に対する弾劾の意味を含んだこの建議案は、88対68をもって可決されるのだが、これはこの頃、懇話会・三曜会と、研究会などの政府派の勢力が伯仲していることを示している。

第3議会終了後、松方内閣に代わって、第2次伊藤博文内閣が成立する。第5議会、第6議会において、伊藤内閣は、衆議院で自由党との関係を深めていくが、改進党や国民協会などの連合が、条約問題で政府と対抗した(「対外硬派」の結成)。対外硬派の攻勢に対し、伊藤内閣は、第5議会において停会に次ぐ停会の末、解散を断行した。これを見て貴族院の懇話会・三曜会の議員らは、「意見書(忠告書)」を伊藤首相に提出して政府を非難した。議会での説明もない解散を「議会の本義」に反すと批判したものであった。第6議会も外交問題を理由に解散となると、貴族院の政府批判派は、衆議院の対外硬派の選挙応援を行った。

こうした立憲主義的観点からの政府批判の中心は、三曜会の領袖近衛篤麿や懇話会の谷干城であった。『近衛篤麿日記』(5)は、貴族院議員の日記の中でもよく知られている。近衛の日記は、明治28(1895)年2月19日から36(1903)年3月31日までのものが残っている。

家柄と政治的な資質に恵まれた近衛には、何度か入閣の勧誘があった。第2次松方内閣すなわち進歩党(立憲改進党を中心に対外硬運動を展開した勢力が結成)と提携した松隈内閣で、文相就任の打診があった。この時は、学習院長との兼任が困難との理由で断ったが、その一方で、文相には蜂須賀茂韶貴族院議長が就任し、近衛が貴族院議長の後任となった。近衛はその事情を日記に記している。そこでは、長年貴族院操縦の任にあった伊東巳代治が自派系列の西園寺公望を後任議長とするため工作を行い、それに対し、松方首相がなかば強引に近衛を議長として天皇に奏薦したことが記されている(『近衛篤麿日記 第1巻』明治29年10月4日条)。貴族院議長は、会派勢力が拮抗している中では、その裁量が採決を左右することもあり、いかなる系列の人物がその職に就くかは重要であった。この結果は、大きく貴族院の議事に影響する。

松方内閣に対して、懇話会・三曜会は、軍備拡張抑制による財政の緊縮や政治的な自由の実現を期待して融和的となっていた。一方、この頃の研究会は、近衛篤麿が日記で「伊東巳代治は研究会に一の首領を置き操縦する計画の処、研究会はこれに応ぜざりし趣」(『近衛篤麿日記 第1巻』明治29年10月3日条)と記すように、政党と提携関係を結ぶ方向に向かう伊東巳代治の支配から脱し、反政党の官僚系支配が強まっていた。

明治30(1897)年、伯子男爵と多額納税者議員が7年の任期を終え、改選となった。70名が一挙に改選される子爵選挙では、選挙母体「尚友会」を有していた研究会が、圧倒的強さを発揮した。研究会と反対の立場に立つことが多かった近衛は日記に、「子爵は尚友会予定の通りとなれりとの事……奇怪なる顕象といふべし。尚友会なるもの未だ消滅の時期に達せず、益す其醜をさらさんとす。嗚呼貴族院の事言ふに忍びず、華族全体の為に浩嘆せずんばあるべからず」(『近衛篤麿日記 第1巻』明治30年7月11日条)と述べている。

伯子男爵選挙は、委託投票が許されていた上に、記名完全連記制という選挙制度であった。完全連記制とは、選挙すべき全員を連記するという今日から見れば特殊な選挙制度である。この制度は、ひとたび多数派の選挙母体が成立すると、少数派を完全に圧することが可能な制度であった。批判も多く、貴族院改革が話題となると常に改正が論議された選挙制度であったが、ついに貴族院の廃止に至るまで改正されることなく維持された。

明治30(1897)年の選挙を機に各爵網羅的な会派であった研究会は子爵が中心となる。また、改選の後、研究会所属男爵議員の多くが離れ、独自に男爵議員の会派「木曜会」を結成した。木曜会も選挙母体二七会を組織して、男爵議員選挙を主導することとなる。

明治31(1898)年6月、第1次大隈重信内閣(隈板内閣)が成立するが、この憲政党を基盤とする政党内閣に対し、貴族院は大きな岐路に立つ。政党内閣の出現に対抗し、官僚系は、平田東助などを中心に貴族院内の同志をまとめる。その結果、第2次山県有朋内閣成立後、「幸倶楽部」が設立された。幸倶楽部は、社交団体であるが、貴族院の院内会派「茶話会」と「無所属派」(純粋な無所属とは別で政治的な会派)が主な構成者で、両派は、幸倶楽部二派と呼ばれ、いわゆる「官僚派」の牙城となった。幸倶楽部については、『幸倶楽部沿革日誌』(6)がある。この日誌は、時系列で幸倶楽部内で行われた各種会合の概要や、幸倶楽部の規約、役員改選等の情報が記されており、活動の内容を知ることができる。また、幸倶楽部内の無所属派に所属する伯爵坊城俊章の日記にも、創設期の記述がある(『坊城俊章日記・記録集成』(7))。

山県内閣の後、立憲政友会を基盤に第4次伊藤博文内閣が成立するが、第15議会、貴族院の諸派は、政府が提出し衆議院を通過した酒税、砂糖税、海関税の諸増税に反対した。近衛の日記から、伊藤内閣が貴族院の反対にあった経緯がわかる。この反対は、政党内閣に対する忌避感ばかりでなく東アジアへの進出を巡る外交政策の意見対立や増税そのものに対する批判など諸要因によるものであった(小林前掲書)。伊藤首相は、増税案通過を懇願する演説を行い、また停会(貴族院が原因となる初めての停会)して、山県や松方らの元老による調停を行うが不調に終わる。結局伊藤首相は詔勅に頼り、明治天皇から近衛議長に「速ニ廟謨ヲ翼賛」するようにとの勅語が下された。詔勅を受け貴族院は増税賛成に転ずるが、近衛は、「当初これを否決せんとしたるは、決して無責任の言動を為して一時の快を貪らんとするものにあらざることを奏上するの必要あり」(『近衛篤麿日記 第4巻』明治34年3月14日条)と、天皇への「分疏的上奏」(明治34年3月14日付山県有朋宛伊藤博文書翰『山縣有朋関係文書1』(8))を試みている(後、取りやめとなる)。この経緯は、貴族院が政府から自立的行動をとると、政府にとって強固な壁となることを示している。また、天皇の詔勅が政府・衆議院を支持すると解釈される余地があることから、実は貴族院にとっても、こうした自立的行動が、正当性を否認される可能性があるという意味で、困難であることも示すものであった。

財政問題により倒れた伊藤内閣の後は、第1次桂太郎内閣が成立し、西園寺公望と交互に内閣を担う「桂園時代」となる。桂園時代期の貴族院については、『原敬日記』(9)(10)と「田健治郎日記」(以下「田日記」)【田健治郎関係文書1~59】の記述が豊かな知見をもたらしてくれる。桂太郎は、貴族院の幸倶楽部二派の支持を受け、最高幹部の平田東助や大浦兼武を通じて、幸倶楽部を統制した。また、子爵中心の大会派であった研究会は、幸倶楽部と歩調を合わせることで、貴族院の大勢を左右した。こうした幸倶楽部の統制の構造については、「南郷茂光日記」【憲政資料室収集文書1459】ならびに「田日記」が参考になる。

両日記からは、幸倶楽部の最高幹部組織「十金会」の活動がわかる。「南郷日記」が公開される以前は、十金会については「田日記」による情報のみであったが、「南郷日記」により、それが補完された。「南郷日記」は、明治39(1906)年11月から40(1907)年11月までしか残っておらず、それ以前のことは、不明であるが、「南郷日記」明治39(1906)年12月7日条に「富士見軒ノ十金会ニ出ツ。出席者、船越(衛)、松平(正直)、平田(東助)、小松原(英太郎)、余外一名ナリ」と記されており、十金会は、第1次西園寺内閣の頃には成立していたことが確実となる。「田日記」には、「十金会者幸倶楽部、茶話会、無所属幹部中執中枢者則平田(東助)、大浦(兼武)、小松原、平山(成信)、原(保太郎)、沖(守固)、高橋(新吉)、有地(品之允)、穂積(八束)、及余(田健治郎)等之所密組織、事之重大渉枢機者先経此会之内決而後及之於他政友也」(明治44年10月26日条)と十金会に関する記載がある。十金会は、幸倶楽部二派の政策を決める重要組織であり、平田、大浦を通じ、ここに桂太郎の意向が反映され、三島弥太郎が指導する研究会と連携することで、桂による貴族院統制が実現した。それを背景に、桂と衆議院の最大勢力政友会との間で、桂園時代の妥協政治が行われたのである。

桂園時代には、西園寺内閣の原敬内務大臣によって、貴族院を支配する幸倶楽部・研究会の連携体制への挑戦(「郡制廃止法案」の提出、研究会の領袖堀田正養の西園寺内閣入閣、子爵選挙を巡る子爵談話会による尚友会への挑戦など)が行われたが、貴族院内の「非政党主義」の連携は強固で、この体制を崩す迄には至らなかった。むしろ、幸倶楽部主導の選挙母体「協同会」が、男爵議員会派木曜会の選挙母体二七会を凌駕し、その結果、幸倶楽部が男爵議員の多くを取り込み、明治44(1911)年末には、『幸倶楽部沿革日誌』が「貴族院の大勢を制するものは幸倶楽部員にして貴族院をして政党政派に偏せす、超然其面目を発揮せしめたるは実に此の当時なりしなり」と述べるごとき状勢となった。なお、上記の経緯は、『原敬日記』や前記の「田日記」、研究会の領袖となる水野直の「尚友会幹事日誌」【水野直関係文書12】などの日記から明らかになる。

一方で、第3次桂太郎内閣期に、桂が結成を表明した立憲同志会参加の勧誘に、幸倶楽部二派、研究会の大勢は、「非政党主義」を堅持してこれに加わらなかったが、十金会が不参加を決定する過程は、「田日記」に詳しい。

おわりに

以上、明治期の貴族院について述べてきたが、最後に、大正期、昭和期の貴族院について、参考となるべき日記について略述しておきたい。

大正期には、桂太郎が残した立憲同志会と政友会の二大政党が政治を左右するようになるが、貴族院も政党や国民の動向から大きく影響を受ける。いわゆる大正政変後、第一次山本権兵衛内閣がシーメンス事件で民衆の広範な反発を受けたとき、民衆の声に呼応するように海軍補充費を削減して、倒閣に導く貴族院諸派の動きを「田日記」は伝えている。また、貴族院の動向も含めた政局の推移を記す日記で、最も詳細なのは『原敬日記』であり、原による政友会の両院縦断の経緯がわかる。また両院縦断を構成する貴族院の研究会側の史料として「水野直日記・懐中手帳」(大正8年欠)【水野直関係文書10~11, 13~35】がある。有爵議員を網羅して、貴族院の最大派閥となり、単独で政権にも影響力を持つ会派を目指した水野直のいわゆる「大研究会構想」を実現しようとする試みが記されている。

大正期、幸倶楽部の中にも変化が生ずる。幸倶楽部に所属する男爵議員が、反政党的な傾向のある勅選議員支配に飽き足らず、旧来の幸倶楽部二派体制に反発し、男爵議員による新会派設立が企てられ、大正8(1919)年、彼らは、新会派「公正会」を創設した。この公正会について、公正会の設立に関わった阪谷芳郎の「家庭日記」【阪谷芳郎関係文書667~672, 679~734】があり、貴族院書記官の「河井弥八日記」(掛川市教育委員会所蔵)にも記述がある。公正会の結成により、貴族院内の会派再編が進み、大正8年11月、無所属派の一部と土曜会が合同して「同成会」を結成する。なお、大正期の貴族院については、研究会の指導者となった『黒田清輝日記』(11)、断片的な記述ながら「石黒忠悳日記」【石黒忠悳関係文書1848~1915】があり、貴族院議員ではないが対中国外交問題などで、研究会や公正会の幹部らとの交渉記録を多く含む『西原亀三日記』(12)も情報が多い。また「松本剛吉政治日誌」(13)にも貴族院内の情勢を伝える記事がある。

昭和期の貴族院議員の日記としては、『大蔵公望日記』(14)、松本学「日誌」【松本学関係文書615~655】、『有馬賴寧日記』(15)が知られ、利用されている。政友会系の交友倶楽部に属した勅選議員南弘の日記(独立行政法人国立公文書館所蔵)、研究会所属の子爵議員『保科正昭日誌』(16)も議会活動を伝える記事がある。また、終戦前後の貴族院については、貴族院書記官長の小林次郎「日誌」【小林次郎関係文書1】、貴族院議事課長「寺光忠日誌」【寺光忠関係文書1001, 1004, 1008~1017】は、同じ貴族院事務局に属したが、異なった考えに立って貴族院内会派や議員と関わっていることがわかり興味深い。貴族院事務局庶務課の記録である「貴族院日誌」(写本、大正14年~昭和16年, 昭和8~10年, 12年, 15年欠)【貴族院五十年史編纂会収集文書44~55】は、皇族の行幸啓、議員の進退などの庶務関係記事が記され、院内各派交渉会に関する記述も見られる。なお、戦後の昭和21年のみであるが、貴族院研究会の「日誌」【憲政資料収集文書1262】もある。

以上の通り、貴族院関係の日記には、詳細な日記も断片的な日記もあるが、他の史料や議会議事録を参照することで、重要な歴史事実が明らかとなる。今回、国立国会図書館デジタルコレクションにて公開された日記が多くの方々に広く参照されることにより、貴族院研究がさらに深化することを願ってやまない。

  1. 「枢密院会議筆記・一、貴族院令・明治二十一年自十二月十三日至同月十七日」国立公文書館所蔵 国立公文書館デジタルアーカイブ
  2. 『憲法義解』[東京新報社,1889]【特70-189】
  3. 霞会館華族資料調査委員会編纂『華族会館誌』吉川弘文館, 1986【E4-291】
  4. 伊藤博文編、 金子堅太郎, 平塚篤校『秘書類纂 帝国議会資料 上下』秘書類纂刊行会, 1934【678-102】上巻, 下巻
  5. 近衛篤麿日記刊行会編『近衛篤麿日記 1巻~5巻・別巻』鹿島研究所出版会, 1968-1969【289.1-Ko6463k】
  6. 尚友倶楽部史料調査室, 小林和幸編集『幸倶楽部沿革日誌』(尚友ブックレット;26)尚友倶楽部, 2013【A114-L46】
  7. 坊城俊章[著]、尚友倶楽部, 西岡香織編『坊城俊章日記・記録集成』芙蓉書房出版, 1998【GK41-G10】
  8. 尚友倶楽部山縣有朋関係文書編纂委員会編『山縣有朋関係文書 1』山川出版社, 2005【GK157-H20】
  9. 原敬[著]、原奎一郎編『原敬日記 1巻~6巻』福村出版, 2000【GB411-G161】
  10. 原敬[著]、岩壁義光, 広瀬順晧編『影印原敬日記 1巻~17巻』北泉社, 1998【GB411-G65】
  11. 『黒田清輝日記 1巻~4巻』中央公論美術出版, 1966-1967【723.1-Ku883k4】
  12. 山本四郎編『西原亀三日記』(京都女子大学研究叢刊;8)京都女子大学, 1983【GK96-36】
  13. 「松本剛吉政治日誌」(岡義武, 林茂校訂『大正デモクラシー期の政治:松本剛吉政治日誌』岩波書店, 1959所収)【312.1-M317t-O】
  14. 『大蔵公望日記 1巻~4巻(昭和7~昭和20年)』(内政史研究資料;別集2-1)内政史研究会, 1973-1975【GB511-30】
  15. 尚友倶楽部, 伊藤隆編『有馬頼寧日記 1巻~5巻』山川出版社, 1997-2003【GK37-G6】
  16. 霞会館華族文化調査委員会編纂『保科正昭日誌』霞会館, 2017【GB631-L197】

参考文献

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  • 小林和幸『明治立憲政治と貴族院』吉川弘文館, 2002【AZ-244-G7】、同「貴族院の華族と勅任議員」(小林和幸編『明治史講義 テーマ篇』(ちくま新書;1318)筑摩書房, 2018所収)【GB415-L49】
  • 小林次郎、尚友倶楽部史料調査室, 今津敏晃編集『最後の貴族院書記官長小林次郎日記:昭和20年1月1日~12月31日』(尚友ブックレット;31)芙蓉書房出版, 2016【GK182-L612】
  • 西尾林太郎『大正デモクラシーの時代と貴族院』成文堂, 2005【GB461-H5】、同『大正デモクラシーと貴族院改革』成文堂, 2016【GB461-L13】
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