国立国会図書館憲政資料室 日記の世界

龍野周一郎と明治期の総選挙

日記で読む政治史

中元 崇智(中京大学文学部教授)

自由民権家・政党政治家の龍野周一郎は著名な人物とはいえない。だが、龍野は自由党の事務や遊説、『自由党党報』編纂に尽力し、自由党総理板垣退助にとって不可欠な人物であった。そこで、まず龍野の略歴を概観する。

龍野周一郎(1864-1928)は長野県出身、明治14(1881)年に自由党に参加した。明治23(1890)年に立憲自由党の事務員となり、明治24(1891)年に『自由党党報』の編集を主幹する。長野県小県郡会議員(明治24年)、長野県会議員(明治25年)に選出される一方、自由党のために全国各地を遊説し、総選挙の応援演説でも活躍した。明治31(1898)年、第5回総選挙で衆議院議員に初当選し、以後、第6・7・8・14回総選挙で当選、自由党ー憲政党ー立憲政友会に所属した(「稀本あれこれ(417)甲午西遊録」)。

こうした経歴から国立国会図書館憲政資料室所蔵龍野周一郎関係文書には龍野自身が残した膨大な日記や自由党関係の史料が数多く存在する。本論では、龍野の日記類を中心に取り上げる。そして、第3回総選挙における三重県第5区、第5回総選挙における長野県第3区を中心に、自由党がいかに選挙を戦おうとしたのか、その選挙運動の一端を龍野の日記から概観する。

当時の総選挙は男子25歳以上で直接国税15円以上を納める者に選挙権を与える制限選挙であり、原則1区1名の小選挙区制であった。しかし、1枚の投票用紙に候補者を2名記入する連記投票制の2人区という例外もあり、三重県第5区も県下唯一の2人区であった。三重県第5区は度会郡、答志郡、英虞郡、北牟婁郡、南牟婁郡であり、おおむね現在の伊勢市以南全域にあたる広範な選挙区であった。

三重県第5区を地盤としていたのが、後に「憲政の神様」と称され、25回連続当選を飾る尾崎行雄であった。尾崎は神奈川県津久井郡又野村出身であるが、父の尾崎行正が度会県の役人を務め、退官後も度合郡城田村大字川端(現伊勢市)の郊外に居住していた。尾崎は殖産事業などで熱心に活動した行正の縁を頼り、三重県第5区から候補者となったとされる(『尾崎咢堂全集 第11巻』)。そして、第1回総選挙(明治23年7月1日)では、尾崎が1772票を獲得し、2位の北川矩一(1438票)とともに当選している。

第2回総選挙(明治25年2月15日)は、尾崎行雄(立憲改進党)、角利助(無所属・明治24年7月10日の補欠選挙で当選)の前代議士と新人の高木貞太郎(自由党系)、竹原撲一(自由党系)が激しく競り合う選挙であった。尾崎は品川弥二郎内務大臣による有名な選挙干渉の標的となる一方、当時三重県を風靡していた地価修正派から地価修正反対論者と誤解されて批判されたために、苦戦したのである。これに対して、尾崎は英虞郡鵜方村の大地主で県会議員を務めた森本確也の支持によって、答志・英虞郡(旧志摩国)の地盤を固める。そして、地価修正派と和解し、自らが地価修正に熱心であることを新聞紙上で広告する一方、各地を遊説して支持を集めた。その結果、尾崎は角利助(1263票)に次ぐ2位当選(1104票)を果たしている。(『伊勢市史』第4巻(近代編))。

第2回総選挙における苦戦の結果、明治25(1892)年4月に尾崎及び尾崎派は立憲改進党系の政治団体好友会を設立し、自派の地盤宇治山田町及び度会郡を拠点として勢力を拡大しようとした。一方、自由党系も同年6月に正義会を設立、立憲改進党系に比べて弱体な南勢=第5区での党勢を拡大すべく、栗原亮一(三重県第1区選出・衆議院議員)を中心に画策した。栗原は鳥羽出身で実父の中村武一、養父の栗原亮休がともに鳥羽藩士で地縁があり、第2回総選挙で落選後、一時的に第4区から補欠選挙で当選するなど、南勢および第5区内にも隠然たる勢力を有していた。

龍野周一郎と三重県遊説―「三重県漫遊要録」―

「三重県漫遊要録」【龍野周一郎関係文書164】は明治26(1893)年7月15日から8月1日までの三重県における遊説日記である。序言には、三重県自由党員大会が津市で開催され、党勢拡張を決定したこと、天春文衛(三重県第2区選出・衆議院議員)らが自由党本部を訪問し、自由党総理板垣退助らの遊説を要請したことが記されている。

7月15日、板垣一行は三重県遊説のために東京を出発した。この時、随行したのは自由党本部の齋藤珪次、龍野周一郎である。7月22日、板垣は東京へ帰京、齋藤、龍野、天春は7月23日に宇治山田町で演説した(「三重県漫遊要録」)。

龍野らは各地を遊説後、自由党最高幹部で衆議院議長の星亨と松坂で合流した。7月29日には、星らが田丸町や宇治山田町で演説し、聴衆4500余名、園遊会の来会者350余名、入党者150余名を数えたとされる(「三重県漫遊要録」)。

この時、遊説に尽力したのが正義会の笹尾新吾、奥山迂吉、高木貞太郎らであった。龍野は「三重県漫遊要録」に地方の支持者を丁寧に記録しており、党務や『自由党党報』の刊行に役立てる狙いがあったと思われる。7月30日の鳥羽における政談演説会に際しては、栗原亮一の養父である栗原亮休、叔父の奥村善八らも参会しており、栗原の影響力もうかがわれる(「三重県漫遊要録」)。 

龍野周一郎と第3回総選挙①―「選挙の塵」から―

第3回総選挙に関する龍野周一郎の「選挙の塵」【龍野周一郎関係文書169】は明治27(1894)年1月1日から2月4日までの日記である。1月1日、龍野は東京を出発、長野県上田町で政友と協議した後、東塩田村の自宅へ到着した。4日から小県郡を中心に自由党候補を支援する選挙運動を行っている。1月21日に東京着、翌日の自由党本部における勤務を経て1月23日から31日まで入院、2月1日から3日まで本部で勤務し、4日は関西遊説の準備をしている。龍野は1月1日に以下のように述べている。

第5議会に於ける、下院の多数は、盲動軽挙天下の大計を忘れ、徒らに私朋権勢を争ひ、国家の進運、民人の休戚措て問はさるものゝ如し、余輩彼の行動を目撃し、下院の改造せさるべからさるを感する洵に切なり、(「選挙の塵」明治27年1月1日条)

当時、第2次伊藤博文内閣が推進する条約改正に対して、賛成の自由党と現行条約の厳密な運用(現行条約励行)を主張する立憲改進党・国民協会など対外硬六派が激しく対立していた。そのため、明治26(1893)年12月30日に第5議会は解散された。龍野は国家や人民を顧みずに権勢を争う(と考えた)、立憲改進党など対外硬六派に対して、「下院(衆議院)の改造」を期す思いを強め、熱心に選挙運動に取り組むこととなる。

一方、三重県第5区では、立憲改進党系の好友会が森本確也を立憲改進党に入党させた。好友会は森本を第5区の候補者とすることにより、尾崎とともに2人当選を目指したのである。この2人に対抗する候補者として名前が挙がったのが、龍野であった。

1月11日、板垣は長野県にいた龍野に「三重県第五区の候補者たる事を承諾すへき旨の督促」をしていた(「選挙の塵」)。立憲改進党系の新聞『郵便報知新聞』も三重県第5区の候補者として、角利助(前代議士)、龍野周一郎、森本確也、尾崎行雄(前代議士)の名前を挙げていた。自由党はまず三重第5区の候補者として、自由党最高幹部の松田正久(佐賀県選出・元代議士)を擁立しようとしたが、勝算が乏しく断念し、続いて龍野の擁立を計画したと報道されている(「候補者彙報 三重縣」『郵便報知新聞』明治27年1月13日 第6360号、「總撰舉彙報 地方 三重縣第五區」『郵便報知新聞』明治27年1月30日 第6374号【Z81-54】)。松田は佐賀県出身、龍野は長野県出身であり、2人ともいわゆる「落下傘候補」であった。「落下傘候補」擁立の背景について、龍野の日記を見てみよう。

又板翁、河野、栗原、天春諸氏を訪ねて郷里巡回の概況を報し、併せて三重県に候補たる事を辞す、是より先き三重県第五区自由主義者の団体なる正義会に於てハ余を迎へて同区の候補たらしめんとし、全区の我党員斉しく之を希ひ、三重県我党前代議士及ひ先輩諸氏亦大に之に賛して斡旋し、板翁も大に之を喜ひ屢々懇諭ありしを以て(中略)(「選挙の塵」明治27年1月22日条)

このように、自由党系の正義会は龍野を三重県第5区の候補者として擁立しようとしていた。龍野が前年の三重県遊説に参加したことに加えて、県選出の自由党前代議士(栗原亮一・天春文衛)及び先輩諸氏が龍野擁立に賛成、板垣もこの話を大いに喜んで龍野に承諾するよう督促したのである。

しかし、龍野は地元長野県の同志と相談の上、この話を断った。龍野が辞退した後、第5区の候補者として白羽の矢が立ったのが、尾崎の慶應義塾時代の恩師であった門野幾之進と『自由新聞』記者奥野(溝口)市次郎であった。尾崎は門野が候補者となったことについて、「私は今日まで、何十回の選挙を経験したが、ほんとに苦しいと思つたのは、この時であつた」(『尾崎咢堂全集』第11巻)と述べている。

門野を擁立したのが、栗原亮一である。栗原は門野と同郷の鳥羽出身であり、栗原が板垣に門野を紹介したと考えられる。明治(27)年(1)月27日付栗原亮一宛門野幾之進書簡によると、栗原からの家格、生年月日の問い合わせに対して門野が回答しており、栗原が門野の出馬に関与したことが判明する。また、門野は「板垣先生関西出馬之砌ハ必す三重県へ立寄有之様、呉々御依頼相願候」と板垣総理の選挙応援を依頼していた(「門野幾之進書簡」【栗原亮一関係文書27】)。実際に、板垣は明治27(1894)年2月19日に宇治山田に到着した。2月20日には度会郡田丸町、宇治山田町、21日には答志郡磯部村で政談演説会に臨み、門野・奥野の選挙を応援している(「板垣伯の着田」『伊勢新聞』明治27年2月20日 第4449号、「板垣総理ー行政談大演説会」、「板垣総理の一行演説日割」『伊勢新聞』明治27年2月21日 第4450号【Z86-3】)。

明治27(1894)年3月1日、第3回総選挙が実施された。その結果は自由党120、改進党49、国民協会27、選挙後に結成された立憲革新党37などであった。一方、三重県第5区の開票結果は尾崎行雄が1074票、森本確也が975票で当選し、門野幾之進は830票、奥野市次郎は772票で落選した。好友会を中心とする尾崎の度会郡における地盤と森本の答志・英虞郡における地盤の協力体制が自由党の挑戦を阻んだといえよう(『伊勢市史』第4巻(近代編))。

このように、第3回総選挙で自由党は三重県第5区において有力な「落下傘候補」(龍野や門野)を擁立するだけでなく、板垣総理を応援演説に派遣し、尾崎ら改進党勢力に挑戦した。こうした第3回総選挙の一端を龍野の日記「選挙の塵」は教えてくれる。

龍野周一郎と第3回総選挙②―「甲午西遊録」から―

「甲午西遊録」【龍野周一郎関係文書170】は明治27(1894)年2月5日から4月30日までの日記であり、龍野が板垣総理の選挙応援に随行して東京を出発するところから始まる。板垣一行は浜松、岐阜、京都、大阪、神戸、奈良などを遊説し、各地で熱烈な歓迎を受けた。その一端を眺めてみよう。

第3回総選挙で岐阜県第5区(1人区/郡上・武儀郡)から候補者となった岩田徳義は明治15(1882)年4月6日に発生した板垣退助岐阜遭難事件にも立ち会った自由党濃飛支部の幹部である。しかし、岐阜県は吏党系(大成会ー中央交渉部ー国民協会)が選挙で勝利してきた地域であり、岩田ら濃飛自由党は板垣に応援演説を依頼した。岩田らは板垣が県内各郡を3日間遊説することで、不利な選挙情勢を挽回する期待をかけていた。

2月6日午後1時56分に板垣一行は岐阜に到着、午後3時から岐阜市濃陽館で懇親会を開催した。翌7日午前8時、板垣は岐阜市で演説したが、一行は午前10時44分の列車で岐阜から京都へ出発した。板垣に随行した遊説員の龍野は「本日ハ京都に赴き有権者談話会に臨むの約あるを以て、岐阜の演説会ハ午前八時ヨリ開会することとなりぬ」と記しており、板垣の岐阜滞在時間はわずか1日弱という過密スケジュールであった。さらに、演説会の会場が確保できなかったためか、「新たに掛小屋を作りて之に宛て」ていた(「甲午西遊録」2月7日条)。しかも、板垣が郡部を遊説する余裕もなかったため、自由党濃飛支部や岩田にとって板垣の遊説効果は限定的であった。

岐阜県第5区の選挙結果は須田万右衛門(国民協会)418票=当選、三輪文三郎(自由党系)211票=次点、岩田徳義9票であった。自由党系の内部分裂もあって岩田は惨敗、岐阜県内の自由党も第6区の浅見与一右衛門以外全員落選という結果に終わっている。

2月16日に龍野は板垣一行と別れ、大阪、京都、名古屋を視察した。2月19日に東京着、翌日には長野県に向かい、21日から各地で応援演説をしている。龍野の地元、長野県第3区(1人区/小県・埴科郡)では、自由党と立憲改進党が各地で激突し、龍野の日記でも自由党の演説会を解散させようとする放火や壮士による演説会の妨害(未遂)が記されている。また、立憲改進党系の博徒などによる有権者への脅迫や暴行、買収など生々しい記述が散見される(「甲午西遊録」2月24・26・28日条)。

長野県第3区の結果は自由党候補者の佐藤八郎右衛門が728票で当選、改進党候補者の南條吉左衛門(476票)を破っている。投票当日の3月1日、有権者は壮士に護衛されて投票会場に赴いたが、龍野は投票後、改進党の壮士数十名に襲撃された。その際に、龍野は大喝して人力車上から短銃1発を発射、壮士を追い散らすなど、緊迫した状況も活写されている。

龍野周一郎と第5回総選挙―「旅行日録」・「日記」から―

龍野周一郎は第5回総選挙(明治31年3月15日)で長野県第3区から自由党候補者として当選、衆議院議員となった。龍野の「旅行日録」【龍野周一郎関係文書183】明治31年1月1日~3月4日条・「日記」【龍野周一郎関係文書184】明治31年3月5日~7月1日条はこの時の選挙戦について記されている。

2月5日、自由党信濃支部で第3区前代議士堀内賢郎慰労会・候補者選定会が開催された。そして、小県自由倶楽部、埴科自由倶楽部の交渉委員22名が相談した結果、今回は小県郡から候補者を出すことを決定、龍野が満場一致で候補者に推薦された(「旅行日録」)。当時、複数の郡を含む選挙区では、選挙ごとに各郡の代表者を順繰りに候補者とする「名誉の分配」の慣行があり、埴科郡を地盤とする堀内の後任として小県郡を地盤とする龍野が推薦されたと考えられる(「隈板内閣下の総選挙」)。

2月6日、自由党信濃支部で「第3区選挙本部規定」が決定され、選挙本部を上田町小県自由倶楽部に設置すること、選挙総務委員(以下、総務委員)12名を設置し、総務委員が庶務係・出納係若干名を選任すること、小県郡では選挙運動を各町村の自治に委ね、各町村2名の選挙委員を設置すること、埴科郡では運動一切を埴科自由倶楽部幹事に嘱託すること、選挙有権者に脅迫・依頼がましい言動はせず、厳正潔白を旨とし、自由任意の投票を得ることが決定された。そして、総務委員が各町村選挙委員を嘱託し、「選挙本部内規」(選挙の機密漏洩に注意すること、金円物品の収支は総務委員の承認を要すること、選挙本部での違法・不徳義を禁止すること、経費は節倹を旨とし、飲食等特に必要の程度に留めることなど)を決定している(「旅行日録」)。龍野の地元小県郡では、自由党第3区選挙本部の総務委員ー各町村選挙委員を中心とする町村単位の選挙態勢が整備される一方、埴科郡では自由倶楽部幹事に選挙運動一切を委任している点が興味深い。

一方、龍野は選挙本部で各町村の選挙委員から情勢報告を受けつつ、党員とも頻繁に会見している(「旅行日録」2月20・21日条)。また、龍野は2月27日に小県郡中塩田村、28日に小県郡東塩田村の政談演説会・懇親会に臨み、自らの政見について演説している。3月1日には屋代町の自由党埴科郡選挙事務所で前代議士の堀内賢郎らと会見、懇親会に出席するなど、精力的に遊説した(「旅行日録」)。

3月15日、第5回総選挙が実施され、自由党と明治29(1896)年3月に立憲改進党・立憲革新党・大手倶楽部・中国進歩党・帝国財政革新会が合同して結成された進歩党が第一党を争った。選挙結果は自由党98、進歩党91、国民協会26であり、自由党は議席を増やしたが、過半数には大きく届かなかった。一方、選挙本部の総務委員ー各町村選挙委員を軸とする組織選挙と精力的な遊説によって、龍野周一郎は長野県第3区で1083票を獲得、次点の横関克巳(156票)に大差をつけて当選したのである。

龍野と板垣退助・河野広中の交流

龍野は自由党総理板垣退助や最高幹部の河野広中と個人的にも親しく、河野には自らの男児の命名も依頼している(「河野広中書翰 明治26年6月10日」【龍野周一郎関係文書59-3】)。そのため、板垣や河野、あるいは自由党ー憲政党の動向も龍野の日記からうかがうことができる。

明治30(1897)年2月15日、河野は自由党を脱党するが、その前日、龍野に「落涙以て心事を語り、脱党の決心を告」げている(「旅行日記」【龍野周一郎関係文書180】)。同年3月19日、板垣が自由党総理を辞任した際には、16日に板垣から「総理辞任の心事を聴き、辞表の下書を認め」ている(「旅行日記」)。

明治31(1898)年6月22日、自由党と進歩党が合同して憲政党が結成され、6月30日に大隈重信を総理大臣、板垣退助を内務大臣とする隈板内閣が成立した。隈板内閣の成立早々、龍野は7月2日、3日に板垣内務大臣らを訪問し、「人材登用に付意見を陳べ」、猟官を陳情したようである(「日記」【龍野周一郎関係文書185】)。10月29日の憲政党解党・自由党系による新たな憲政党結成の際には、龍野は板垣内務大臣や西山志澄警視総監、分裂を主導した星亨の間を奔走している(「日記」)。

龍野は板垣の最後を看取った1人でもある。大正8(1919)年7月16日、板垣退助は東京・芝公園の自宅で死去した(享年83歳)。板垣は持論の一代華族論を実行し、継嗣子が襲爵(爵位の継承)を願い出ることは許さないなどと遺言する。継嗣子の板垣守正も板垣の遺言に従ったため、板垣伯爵家は退助一代で終わった。

そして、板垣の遺言を証人として見届けたのは、かって板垣とともに遊説した、龍野周一郎、齋藤珪次、奥野市次郎の3名であった(「板垣退助遺言書謄本並覚」【龍野周一郎関係文書311-1】)。このエピソードは龍野と板垣の関係の深さを示しているといえよう。

参考文献

  • 中元崇智『板垣退助―自由民権指導者の実像』(中公新書:2618)中央公論新社, 2020【GK199-M1517】
  • 中元崇智『明治期の立憲政治と政党ー自由党系の国家構想と党史編纂』吉川弘文館, 2018【GB415-L56】
  • 伊勢市編『伊勢市史』第4巻(近代編)伊勢市, 2012【YU7-J3674】
  • 清水唯一朗「隈板内閣における猟官の実相―党人、官僚、利権」『日本歴史』674 2004.7【Z8-255】、後に清水唯一朗『政党と官僚の近代ー日本における立憲統治構造の相克』藤原書店, 2007所収【A51-Z-H30】
  • 川人貞史『日本の政党政治1890-1937年:議会分析と選挙の数量分析』東京大学出版会, 1992【A56-Z-E190】
  • 尾崎咢堂全集編纂委員会編『尾崎咢堂全集』第11巻 公論社, 1955【081.8-O982o2-O】
  • 清水唯一朗「隈板内閣下の総選挙―与党内の候補者調整を中心に」『選挙研究:日本選挙学会年報』18 2003【Z2-887】
  • 竹林晶子「稀本あれこれ(417)甲午西遊録」『国立国会図書館月報』499 2002.10【Z21-146】