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キーワード:経済
明治21(1888)年11月13日 詳しく
北垣知事先導して琵琶湖疏水工事を巡覧す。該工事は京都府民の負担にして、琵琶湖の水を京都に疏して、大に工業を振起し傍ら物貨を通運する計画にて、北垣知事物議を排し熱心これに当る。明治十八年工を起し、二十二年十二月を期し竣功を告げんとす。費額予算凡百二十五万円、大津三井寺[みいでら]の右傍より官道の右に沿ひ開鑿せしものにて、隧道[すいどう]五ヵ所あり。全体の工事過半を竣す。
大正7(1918)年8月26日 詳しく
政府の物価、殊に米価調節に干[関]する措置は、好結果を見ざりしうらみあり。
昭和5(1930)年1月11日 詳しく
〇愈々[いよいよ]金解禁の当日なり、万事平穏順調些の動揺なし。安心。〇市場平穏、株式しっかり。〇食堂にてシャンペンを抜き祝杯を挙ぐ。
昭和5(1930)年1月11日 詳しく
民政党内閣濱口総理大臣、井上準之助蔵相の御手柄。金輸出解禁の日。
昭和18(1943)年1月9日 詳しく
暮の二十八日であったか、突如として三井第一、三菱第百の大銀行がそれぞれ合同を発表した。その翌日、第一の明石頭取に逢ったら三井第一の両行は互に信用をしてそのまま合併をする、従って両行共解散交付金の如き事はないとの事であった。
昭和21(1946)年5月1日 詳しく
天気予報は雨を報らせて居ったが、朝起きて見ると太陽が輝いてゐる。しかし相当強い風が吹いてゐて、予報の通り天気が続きそうもない。今日はメーデーである。新聞によると、三十万の人がこの労働記念日に参加して一大示威運動を展開するといふ。宮城前の広場には紅白の布で巻いたプラットフォームが出来て今日の大会を待ってゐる。それが去年の今日はメーデーの催がなかったのは勿論、メーデーと口にする事さへ憚[はばか]らねばならなかったのであるから驚く。何たる変化であらう。
昭和22(1947)年9月20日 詳しく
九時から閣義[閣議]で米価問題と追加予算を議した。米価は総理の裁定に一任することにした。予算は890億円を押つけられたが今一度交渉することゝした。
昭和22(1947)年11月26日 詳しく
この頃の電車やバスは、実際窒息しそうな混雑である。電力不足の為め車台の数を減らした為らしい。何としても非常な苦痛で全くなさけなくなる。しかしパスカルはその冥想録において「廃黜[はいちゅつ]された王でなくして誰が王でない事を不幸だと思ふであらうか。…又眼を一つだけ持ってゐるのを不幸だと思はぬ者があらうか。人は恐らく眼を三つ持たない事を敢て悲しみはすまい」と云っている。大正十二年の震災から自働[動]車に乗って二十五年、今年自働[動]車がなくなってこの交通地獄に逢ふのは果して不幸であらうか。
昭和23(1948)年2月7日 詳しく
ここ二、三日証券界は大暴騰をつゞけ、今日は遂に立会停止となった。インフレ時代とは云へ従来にない騰[あが]り方であった。あるものは一度に百円以上も高くなった。千円以上の株が二、三出て来た。平時三十五、六円であった発送電の株が百四、五十円にもなったといふ始末である。
昭和23(1948)年12月9日 詳しく
今日東芝の総会で、私は取締役に選任された。この話は本年七月始めからの事であった。その後半年に亘[わた]って色々曲折はあったが、結局今日の様になった。
昭和24(1949)年1月19日 詳しく
この頃急に忙がしくなって仕舞[しま]った。全く手紙を書く閑さへない。…東芝では、如何ういふ訳か役員会を会社で開かず、交詢社とか日本クラブとか、工業倶楽部とか、鉄道協会とか、転々として変って歩いてゐるので、自分の席へ戻る閑がない。これは幹部が組合に押しかけられるのを廻避する為だと思ふが、少し馬鹿げてゐる様に思はれる。費用と時間の浪費で、社員は役員に会ふ事も出来ず、私でさへも誰が何処にゐるか判らない。
昭和53(1978)年12月23日 詳しく
各界の予算に関する注文を聞く。消ヒ者団体は一番にが手。しかし傾聴すべき意見多し。アメリカのわが国の成長率公約に対する公約違反を難詰する報道に与野党もマスコミも神経質。まづ実相をアメリカに説明し、予算編成後誰かを派米して、念入りに説明させることにしたい。来年度に対する決意も含めて説明させたい。
昭和54(1979)年1月4日 詳しく
ダグラスとグラマン問題がやかましくなる。カンボチアの状況がいよいよ危機的になる。金太中問題も不燃焼のまゝ残つている。インフレは回避しなければならず、失業者の増加も抑えなければならない。そうした中で新春の仕事が始った。4日の伊勢参拝は無事であった。沿道の歓迎に感謝した。