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キーワード:帝国議会
明治23(1890)年11月25日 詳しく
帝国議会始めて召集せらる。衆議院議員衆議院(内幸町)に集会す。書記官長曽根荒助、仮に議長の職を行ふ。議長候補者三名を選挙す。中嶋信行議長となり、津田真道、松田正久三氏当選す。副議長候補者三名を選挙す。津田真道、楠本正隆、松田正久当選す。
明治23(1890)年11月29日 詳しく
天皇式場に出御、勅語を朗読す。午后衆議院議員議場に会し、勅語奉答の事を議す。
明治29(1896)年3月29日 詳しく
登院閉院式。十二時赤坂離宮にて内閣総理より宴会。
明治31(1898)年6月10日 詳しく
議会開会九時出院、伊藤総理演説好し。民法施行法案継続の案否決。民法通過。衆議院増税案否決議会解散。午後三時黒田宅に行く。
大正5(1916)年1月15日 詳しく
本日まで議院休会。世襲財産小委員会、岡野、富井、奥田三博士修正の案を提出、宮内省側吉田平吾氏の意見あり。研究会大蔵部会、市来、神野両局長の説明あり。追加予算に干[関]し、三千八百万円募債と還元説との説明。
大正6(1917)年1月23日 詳しく
寺内首相、本野外相演舌、大隈侯出席。欧州交戦国慰問決議、黒田侯提出。
昭和5(1930)年1月21日 〇議会再開。〇午前十時貴族院にて施政方針演説一時間に渉[わた]る。これに対し小久保喜七[こくぼきしち]氏の質問あり。これに答ふ。〇午後一時半、衆議院開議、自分、外相、蔵相三人演説の後、政友会犬養総裁の質問あり。自分これに答弁す。犬養氏の再質問あり。自分またこれに答ふ。第二陣として山本(悌)氏演壇に上り将[まさ]に口を開かむとする時、解散の詔勅下る(時に午後四時四十二分)。
昭和5(1930)年12月22日 詳しく
浜口首相遭難に対する慰問決議をなしては如何[いかん]との議あり。(小山副議長よりの申出ならん)。前例としては、伊藤公遭難の際の一例あり。
昭和14(1939)年12月27日 詳しく
初て議場に行く。今日は陸海軍に対する感謝決議あることとて11p.m.行く。先づ10.30貴族院、一条公の決議案朗読あって、陸海軍大臣の謝辞。次で12.20衆議院にて小川郷太郎、山崎達也の決議朗読。陸海軍大臣の謝辞あって終る。
昭和15(1940)年2月9日 詳しく
議長は懲罰委員会に自発的に出席することに決定、その旨各派に通知。
昭和15(1940)年3月9日
「聖戦貫徹ニ関スル決議案」の趣旨弁明者をめぐる紛糾
帝国議会 詳しく
交渉会にて、劈頭上程の聖戦目的貫徹の決議案趣旨弁明者に町田氏にては不可との議出で紛糾す。
昭和15(1940)年11月29日
議会開設五十年記念式典と昭和天皇への単独拝謁
帝国議会 詳しく
九時前登院。議会開設五十年式典。陛下行幸。単独拝謁を賜はる。無上の光栄、感激深し。式次第滞りなく終了。
昭和19(1944)年12月26日 開院式-歴史初まって以来の空襲下の開院式。しかも御親臨あらせらるゝことを拝し、恐懼[きょうく]に堪えず。
昭和21(1946)年7月15日 暑さのpeakらしい。初めて開襟のシャツで登院した。十時から四時迄の委員会でうんざりした。
昭和21(1946)年12月28日 詳しく
九十二帝国議会の開院式で目についたことは出席義[議]員が定員の三分の一位しかなかったことだ。
昭和21(1946)年12月28日 詳しく
本日開院式挙行。午前十一時三十分、天皇陛下議事堂に行幸せられ、貴族院において勅語を賜はる、午后一時徳川議長参内し、奉答文を提ぐ。午后二時迄三回の休憩あり。全院委員長決定せり。本日消費組等会計及売上等精算を為し、職員一同午后七時半迄居残勤務せり。本晩は職員の忘年会を催し、夕食を共にせり。