昭和28(1953)年7月2日
戦犯特赦に対する感謝決議
国会 詳しく
一、戦犯受刑者の特赦に関する感謝決議案 1.各国別に決議すること 2.提出者 益谷君外、各党の幹、「外ム委員長」幹事長、国会対策委員長、議運の委員、外ム委員長
昭和28(1953)年7月2日
一、戦犯受刑者の特赦に関する感謝決議案 1.各国別に決議すること 2.提出者 益谷君外、各党の幹、「外ム委員長」幹事長、国会対策委員長、議運の委員、外ム委員長
昭和28(1953)年10月30日
本日の本会議は午前十時開会になっていたが実際としては、午前十時十分前迄には、登院数は六十五名ばかりであったので、開会することはできず。そうこうしている中に、参議院では開会のベルを鳴らすに至ったので直ちに、当方としては、理事会を開いた。而[しか]してその結果は、参議院の終了するをまってせよということになった。その為めに、議運を開く段階となった。
昭和29(1954)年12月9日
一、一昨日、内閣総辞職のため、首班指名をせねばならぬので、昨日一日、本会議を開会しながら各派との話合がつかず。 ニ、今日は、午后五時迄まって、できないときは更に理事会で相談のこと…。
昭和35(1960)年4月28日
山浦貫一君が見えての話に、清瀬議長にも話して了解ずみであるが、国会の中央の玄関にいま伊藤、大隈、板垣氏等の銅像があるが、もう一つに犬養木堂氏の像を建てる企をするとのことで、邪魔してくれるなとのことであった。自分としては邪魔はしないが、犬養氏は過去の人で、明治時代の憲政功労者は一応あれで区切りをつけて、あとは終戦後国家再建に功労あった人を顕彰すべきではなかろうか。そう考えると終戦処理、二つの日本にしなかった功績、また平和条約を締結した等の功労からは吉田茂氏がその候補者ではなからうかと話した。山浦氏もある程度は首肯されていた。
昭和53(1978)年11月28日
六時頃起床、新聞に目を通す。昨夜の福田総理の退陣表明を堺にして、事態は急速に収拾に進み、静かに私の出番を迎えてくれる空気ができつつあるようである。
昭和53(1978)年12月2日
午前中の共同とのインタビューで、東大の京極氏より、政治には <金で買う政治><力で抑える政治><尊敬で治める政治>の三つがあるが、貴方はどこに力点をおくかと問われた。
昭和54(1979)年1月25日
政治姿勢と時代認識をまづ出すことにし、それに勝負をかけた。文化の時代は、経済至上主義を排除するが、経済を軽視するものではないばかりか、経済そのものが成り立つ条件をつくり上げる文化の、目に見えない力を評価するものだ。