昭和15(1940)年[1月30日]
『衆議院手帖』にみる第75回帝国議会
詳しく
昭和十五年度一般会計財源に充つる為公債発行案、外五件…。
昭和15(1940)年[1月30日]
昭和十五年度一般会計財源に充つる為公債発行案、外五件…。
昭和15(1940)年2月9日
議長は懲罰委員会に自発的に出席することに決定、その旨各派に通知。
昭和15(1940)年3月9日
交渉会にて、劈頭上程の聖戦目的貫徹の決議案趣旨弁明者に町田氏にては不可との議出で紛糾す。
昭和15(1940)年3月13日
相変らず忙しき一日、今日は議会には海軍関係がないので役所、しかし11a.m.軍事参議会で大臣官邸で内議、小生より説明、2p.m.前田大佐、海南島報告、3p.m.左近司中将、石油問題、その内に奥少将、外務の堀内局長。6.30p.m.水交社にて独エンネカー及クーツマン招待。汪氏声明。これに応ずる米内首相の談話ありて、新中央政府の第一声。
昭和15(1940)年9月27日
三国条約調印。…万歳なりひびき、こゝに大祝賀終る。しかし心からそれは楽しかったか、否。前途を見れば中々[なかなか]大難局。
昭和15(1940)年11月29日
九時前登院。議会開設五十年式典。陛下行幸。単独拝謁を賜はる。無上の光栄、感激深し。式次第滞りなく終了。
昭和16(1941)年3月12日
11a.m. Matteucci中将、Talarigo中佐の案内でPantheon、無名戦士の墓及Fascist殉難者の墓に花輪を捧ぐ。
昭和17(1942)年2月22日
午後零時過より淑子を伴ひ三越にゆき、特別食堂にて食事。祥子の初節句に付お雛様を見る。高島屋にゆき恰好のものを見付ける。直に購入、官舎へ届けさせる。
昭和17(1942)年3月5日
今朝八時過空襲警報あり。南鳥島附近迄、米航空母艦より出たる航空機三十機来襲の由。内七機撃墜、後は撃退。
昭和18(1943)年1月9日
暮の二十八日であったか、突如として三井第一、三菱第百の大銀行がそれぞれ合同を発表した。その翌日、第一の明石頭取に逢ったら三井第一の両行は互に信用をしてそのまま合併をする、従って両行共解散交付金の如き事はないとの事であった。
昭和19(1944)年1月1日
大東亜戦争始まって、三度目の元旦を迎えた。戦局は厳しく苛烈となり、本年こそは愈々決戦の年と敵も味方もいふ。世相も大分変って来た。食糧も大分窮屈になって来た。
昭和19(1944)年2月1日
どうもマーシャル方面は模様がよくない様です。…アワテチャいけない、未だ判らないのだ。
昭和19(1944)年4月18日
54th Birthday、今や満53才。
昭和19(1944)年5月20日
この頃東条内閣の評ばんが恐ろしく悪い様だ。
昭和19(1944)年7月5日
事態は愈々[いよいよ]接迫した。午後三時の放送によると、小笠原父島へ敵機百機が来襲し、且つ艦砲射撃を受けてゐるとの事である。…サイパンも重囲の裡[うち]にある。
昭和19(1944)年7月8日
サイパン島玉砕[ぎょくさい]の事実、敵愾心を煽る。玉砕に対し黙祷。最前線の覚悟、戦意を失ふな。本土を守れ。
昭和19(1944)年8月2日
到々東条内閣は総辞職を決行した。噂によるとその退き際の態度は甚だ宜しくなかった様だ。後継は小磯米内両大将に大命が降下した。そして小磯内閣が出来た。後継後未だ何もしてゐないので、別段これといふ事もないが東条が去った事だけは一般に喜ばれた様だ。それに干係[関係]なく戦局はドンドン進行してゐる。テニアン大宮島(グアム)にも敵が上陸した。何れはサイパンの運命をたどるらしく見える。
昭和19(1944)年8月26日
サイパンは遂に玉砕[ぎょくさい]した。テニアン、大宮島[グアム]は尚反抗をつゞけてゐる様であるが孤立無援の状態である。…何処へ行っても良い話はきかない。
昭和20(1945)年2月27日
児玉伯より電話。阿部、陸軍では岡田が大臣になりたがってあせっていると云ふ。重臣が陛下に拝謁の際平和のことを申上げたる処、「総て戦捷[戦勝]後だ」と仰せられし由。大島子、今のまゝではだめ、一般民を中部山脈地方へ追ひやり、手足まどいをなくして、本土作戦をすることを宣伝するつもりである、先づ明日研究会の常務委員会で話す、貴族院は衆議院や政府を鞭撻[べんたつ]して、立て直しをやって貰はねばだめだ、それが貴族院の責務だ。
昭和20(1945)年3月10日
十二時過再び警報出で、忽[たちま]ち爆音高射砲音近辺に聞え空襲警報出づ、…後から後から続々と少数機にて侵入し来る。官舎門前に在りて暫し形勢観望したるも、事態容易ならず、しかも議事堂東側に極めて近接して猛火揚がるを見るに及び、車を命じて議事堂に馳けつける。通用門閉じありしも、運転手乗り越えこれを開き進む。時に一時頃。直ちに屋上に登り都内を見るに、足下の司法省、警視庁附属家等炎々と燃えてる最中なり。…
昭和20(1945)年3月10日
警務課で話す。八時官長より電話にて、明日の議事順序を各派へ通報。九時司法省政府委員室にて就寝。警視庁報告に依れば、驚くべし――。絨壇[ママ](じゅうたん)爆撃。被害二十四万戸、九十一万人。死者一万四千人と情報あり。
昭和20(1945)年3月14日
加瀬、本日辺上京、閑あらば面会することになしおけり。先日は重臣三人(若槻氏欠席)首相と面会、あまりつきすすみし話出ず、ふらふらやって行くつもりらしい。Aはこの内閣を投げた。Bが少し未練がある。重光は徳川議長に御目にかかりたし、とのこと。
昭和20(1945)年4月30日
正午十分前、大塚君より電話、伯林[ベルリン]におけるヒトラー総統は、無条件降伏を為す事を決意し、四十八時間以内に通告するとの通信あり。
昭和20(1945)年5月25日
夜、敵機焼夷弾により千駄ヶ谷邸焼失。
昭和20(1945)年5月25日
青山赤坂方面より火勢強く、防空壕に一時待避して居たが危険に付、小林君の官舎を捨てて、十二時頃家族一同小熊の自動車にて脱出する。議会正門横にて下車登院、院内騒然。
昭和20(1945)年8月7日
正午過、岡田厚相来訪。広島に原子爆弾を六日午前八時半頃投下。十数万の死傷の趣、大塚地方総監爆傷死、畑元帥健在、高野知事は出張中にて救かる。成層圏より落下傘にて投下、地上二、三百米[メートル]にて爆裂、直径四キロ全壊全焼、ヱライことなり。
昭和20(1945)年8月8日
曰[いわ]く「広島(東西一里、南北一里、半数疎開で現在人口二十万)へB29、 4機。午前八時半。原子爆弾らしく、人口半数たる十万人死亡せり」と。小村藤井正木すべてその他の人々の安否気づかはる。多くは望み無かるべし。…軍も相当に動揺せるものの如し。
昭和20(1945)年8月10日
阿南陸相は、大東亜戦は国力全体の戦ひであるから、国家の決心に従ふのみ。但し軍は無条件降伏には承服し難し。武装解除したる後がこわい。何をされるか判らぬ。勿論現在の状勢に加ふるに、ソ連を更に敵に廻はし、原子爆弾を相手とするのでは、算盤[そろばん]上勝てぬことは明白。但し、英米に対して最後の一戦を試み、大打撃を与へることは充分の確信あり。
昭和20(1945)年8月11日
五時加瀬君来訪。十日午前六時発電、スウェーデンよりロシア、英[イギリス]、瑞西[スイス]より支那[中国]、米[アメリカ]、何れも到達せり。米は午后六時四十五分頃受取りたりと云ふ。重慶は爆竹、琉球基地は高射砲を発ち、サイレンをならし、B29を出さんとするも出るものなし。米、英も戦捷[戦勝]気分にひたりおれり。英は承知すべし。米も下にも反対のものもあるも、指導者は受諾すべし。重慶は蒋は反対せざるべきも一部に反対者あり。ロシアは不明。ロシアが承諾せざれば、一応は戦を継続するの外なし。陛下が戦を止めろと仰せられしは七月九日なり。
昭和20(1945)年8月15日
天皇陛下は親しくラヂオをもって、和平の詔勅を下し賜はった。これは尠[すくな]からず国民へ衝動を与へた。我国はポツダム宣言の趣旨に従って無条件降伏をしたのである。この事あって数日間は、我飛行機から抗戦論者のビラが撒布され、所々苛激[過激]文書の掲貼を見た。しかし大勢は格別な事もなく日を経るに従って鎮静した様である。しかし一部の兵は宮城に迫ったとか、上野愛宕山に立籠ったとか種々の噂さが立った。蓋[けだ]し事実であろう。
昭和20(1945)年8月15日
小原、次田、矢吹、古島氏と正午の陛下の御放送を拝す。恐懼[きょうく]に堪えず。戦争責任者は自責に堪えざるべし。
昭和20(1945)年8月15日
正午、予算委員室にて、正副議長、余及全職員並[ならびに]居合せたる議員と共に、ラヂオを謹んできく。詔書を宣らせ賜ふ。玉音に、頭[こうべ]垂れ悲憤の涙抑へ難し。しかしこの恨みは何れは霽[は]らさむ。
昭和20(1945)年10月2日
余り馬鹿々々敷[しく]もあり、悲凄でもあったので日記をつける気にもならない間に、凡そ天地は転倒してしまって、大日本帝国は崩壊に突入して仕舞った。振り返って考へれば、我々も申訳のない相済まぬ態度をとって来たものである。それには生命の犠牲が百パーセントあった許[ばか]りにこんな事になったのである。それでもよいか、犬死といふ事も見通しがついてゐたのだ。我は草莽の一野人である。日本の要人は悉く責任がある!!!
昭和20(1945)年10月22日
関屋氏を訪ふ。十六日及昨夜フェラースに面会す。天皇の平和愛好者なることを説明す。フェは側近がもっとよくアドバイスをすべきだったと云ふ。又昨夜はフェは東条が変なことを云はぬやうに注意すべきを可とすと云ふ。これに対しては、はっきり返事をしなかった。
昭和20(1945)年12月13日
何だか少女の歌が聞える。夢かと思って目がさめると、Santa Luciaの少女がローソクを頭にし白衣でCaféとCakeを持って来た。Luciaの歌が終った。何この少女がと、更に眼を見はると何んだLillanであった。CaféとCakeを床の上で食べる、成る程これがLucia祭か。
昭和20(1945)年12月29日
財産税、戦時利得税の基準大略明らかとなる。財産税は基礎控除二万円に家族一人当り二千円。
昭和21(1946)年3月3日
泰介の死迄行を共にした大倉軍曹(邦男)が初台へ訪ねてくれて、泰介が昭和二十年五月二日午前二時、比島[フィリピン島]ルソンのカヤパ山中で倒れた事を詳細話してくれた。これで始めて命日や場所が判ったのである。大倉氏は泰介の遺骸を北を枕にして埋葬して呉れたそうだ。
昭和21(1946)年4月11日
午后から開票の結果がラヂオで放送され、新聞の張出しに人が集まってゐた。党本部に行ったが余り代議士は集まってゐない。夕方にラヂオで私の当選は確実だと放送した。夕食後鳩山一郎氏往訪。
昭和21(1946)年4月13日
選挙の結果自由党141、進歩党92、社会党91、無所属78と判明した。朝吉田外相を往訪した。俺は幣原に殉ずると談り、新内閣にはよき外相と蔵相とを捜すことだと云った。
昭和21(1946)年5月1日
天気予報は雨を報らせて居ったが、朝起きて見ると太陽が輝いてゐる。しかし相当強い風が吹いてゐて、予報の通り天気が続きそうもない。今日はメーデーである。新聞によると、三十万の人がこの労働記念日に参加して一大示威運動を展開するといふ。宮城前の広場には紅白の布で巻いたプラットフォームが出来て今日の大会を待ってゐる。それが去年の今日はメーデーの催がなかったのは勿論、メーデーと口にする事さへ憚[はばか]らねばならなかったのであるから驚く。何たる変化であらう。
昭和21(1946)年5月4日
臥てゐると十時半頃安達君から鳩山氏追放の発表をしらせて来た。急いで東京へ出る準備をした。柳原君スミ子と共に午后一時半官邸に行く。来客に接し鳩山邸へ。ついで本部の代議士会に行く。
昭和21(1946)年7月16日
連日の炎暑で誰も閉口してゐる。十時から憲法委員会、朝十時半頃North Western University のProf. Colgrobeが委員会へ顔を出したので、一寸[ちょっと]休けいにして短かい挨拶をして拍手を送った。案外に手際よくやった。午后二時半再開して五時近く迄に二十一条迄の質問を終った。夜食に金田中[かねたなか]へ、憲法顧問連を一堂に。
昭和21(1946)年7月17日
引つゞいて暑い。例により午前十時から午后五時近くまで憲法委員会、しかも愚問百出でうんざりする。
昭和21(1946)年8月15日
今日いよいよ最後の条文が出来上ったのである。一種の感慨に堪へない。
昭和21(1946)年8月24日
憲法審議が終る頃夕立だった。新橋迄バス、それから明るい気持で家へ帰った。
昭和21(1946)年11月3日
今日は実に印象の深い日だった。議会で陛下臨御の下に公布の式、昼食は議員食堂で祝杯、午后二時宮城前の広場で東京都の都民祝賀大会、陛下御親臨、そして集まる市民の熱狂!素晴らしい日だった。
昭和21(1946)年11月3日
本日、日本国憲法公布記念式典を貴族院において挙行。議員は各控室に午前十時迄に参集せり。午前十時四十分、天皇陛下宮城御出門。四十分頃各議員門前に堵列、御出迎を申上ぐ(皇族四方、玄関にて奉迎)。午前十一時より天皇陛下式場に出御。勅語を賜はる。午前十一時二十七分、還幸。午前十一時三十分から議員食堂にて祝宴。午前十一時五十分頃了。退出せり。
昭和21(1946)年12月10日
午前十時首相官邸にて憲法普及会の第一回総会、会長として簡単な挨拶をした。吉田総理も出席、正午に散会、ついで内閣記者団に発表した。
昭和21(1946)年12月28日
九十二帝国議会の開院式で目についたことは出席義[議]員が定員の三分の一位しかなかったことだ。
昭和21(1946)年12月28日
本日開院式挙行。午前十一時三十分、天皇陛下議事堂に行幸せられ、貴族院において勅語を賜はる、午后一時徳川議長参内し、奉答文を提ぐ。午后二時迄三回の休憩あり。全院委員長決定せり。本日消費組等会計及売上等精算を為し、職員一同午后七時半迄居残勤務せり。本晩は職員の忘年会を催し、夕食を共にせり。
昭和22(1947)年3月3日
交詢社で政界ジープに口述した。自由党の立場といふことを。それから議会に行った。財政に関する質問の日である。午后二時外務省の霞が関会で「憲法改正案のできる迄」といふ話をした。
昭和22(1947)年3月22日
朝の新聞には何も出なかったが政治新聞が新党の記事を長々と書いて口火を切った。新聞記者から質問で追廻された。本会議が夕方迄つゞいた。六時から新日本の座談会、その席で進歩党がいよいよstartしたことを楢橋君から聞いて、私も新党へ乗出さねばならぬと決心した。
昭和22(1947)年5月1日
鉄工ビル‐郡是[グンゼ]‐憲法普及会、党本部へは次第に代議士が集まり始めた。同時に私のパージ問題が乱れとぶ。竹田君入党のことに打合せ。夕方五時に党本部を出て帰宅した。今日も又パーヂの事件についての文書を作って郡是で複写させた。しかし万一パーヂにかゝっても差支ないといふ気持ちになって来た。
昭和22(1947)年5月3日
雨が昨夜以来止まぬ。富[次男]を引具して十時前宮城前の広場に行って式を司会した。今日はAshida dayである。憲法普及会長は重大な意味があった。
昭和22(1947)年5月18日
午后二時丸ビル九階で党大会が開かれ、私は民主党初代の総裁に選任された。
昭和22(1947)年9月2日
今朝の新聞によると、鮎川氏始め二十数名のA級戦犯容疑者が釈放された。巣鴨に行ってから一年、やがて二年にもなるだらう。戦犯がもし日本を侵略戦に導いたといふ点にあるなら彼等は当然釈放されて然るべしだと思ふ。何にしてもお気の毒の事であったが、まァよかった。
昭和22(1947)年9月16日
カセリン台風が通りぬけて今朝は晴天になったが、関東以北は水害で大分やられた。困ったことだ。九時から閣義[閣議]で石炭問題が再び出た。昨夜の打合せ通りに取扱ふ。義会[議会]で民主党の役員会に出る。
昭和22(1947)年9月20日
十四、十五、十六、十七、十八日臀部腫物の為め臥床。この間カザリン台風襲来。風は格別の事なかりしも、未曽の雨量の由にて関東大洪水。利根荒川堤防決解[決壊]して九月二十日に至り、遂に江東も浸水。
昭和22(1947)年10月1日
午前十時衆義院[衆議院]の一室で同胞引揚委員の数名と懇談。事情を詳述した。参義院[参議院]の桜内氏と話す。外務省‐ロータリー‐午餐外務省、午後四時関屋氏来訪。ロシア幽閉中の話をした。
昭和22(1947)年10月14日
昭和二十二年十月十四日の皇族会議で、宮家も秩父、高松、三笠の三宮家を除く外は、五十幾名かの宮様が悉く臣籍に落されて仕舞った。これからは悉く平民である。しかも軍籍にあった宮様は公職追放令にかかって我々と同様になってしまった。
昭和22(1947)年11月1日
五時から芦田君が数人の友人を目黒の官邸に招待してくれた。…彼は民主党総裁であり外務大臣であるが、今の内閣も第一生命同様、随分弱いもので、最もこれはGHQの軍政の下にあるので、誰でも如何する事も出来ないのだが、丁度平野農相の追放の問題が起った際なので内閣も相当ゴタゴタしてゐるらしかった。一方保守政党の団結による新党結成の問題もあり、芦田君も今では総理大臣を夢みてゐるかも知れない。
昭和22(1947)年11月14日
田中角栄氏宅晩餐。
昭和22(1947)年11月24日
パスカルのポンセ―を読む。中々難解であるが、所々何物かを脳裡に遺[のこ]す。
昭和22(1947)年11月26日
この頃の電車やバスは、実際窒息しそうな混雑である。電力不足の為め車台の数を減らした為らしい。何としても非常な苦痛で全くなさけなくなる。しかしパスカルはその冥想録において「廃黜[はいちゅつ]された王でなくして誰が王でない事を不幸だと思ふであらうか。…又眼を一つだけ持ってゐるのを不幸だと思はぬ者があらうか。人は恐らく眼を三つ持たない事を敢て悲しみはすまい」と云っている。大正十二年の震災から自働[動]車に乗って二十五年、今年自働[動]車がなくなってこの交通地獄に逢ふのは果して不幸であらうか。
昭和22(1947)年12月25日
今日はクリスマスである。昨年はGHQにはイルミネーションやクリスマストリ―があったが、今年は何らそんな設備はなかった。日本の経済状態の現状に鑑み、連合軍でも遠慮したものと思はれる。
昭和22(1947)年12月28日
今日はラグビーインターハイのセミファイナルで、成蹊と成城が顔を合せさ[わせ]た。9対6で成蹊が敗れたと見に行った信雄が知らせた。スポーツは勝負に余り重を置いていけないと云って居乍[おりなが]ら敗けるのは淋しい。泰夫は成蹊のキャプテンをしてゐる。
昭和22(1947)年12月31日
到々[とうとう]大晦日になった。一九四七年よ、おさらばである。
昭和23(1948)年2月7日
ここ二、三日証券界は大暴騰をつゞけ、今日は遂に立会停止となった。インフレ時代とは云へ従来にない騰[あが]り方であった。あるものは一度に百円以上も高くなった。千円以上の株が二、三出て来た。平時三十五、六円であった発送電の株が百四、五十円にもなったといふ始末である。
昭和23(1948)年2月7日
昨朝山口喜久一郎君を呼んで政局談をした。四党で政治休戦をして連立で行かうかとの話をしたのが今日は一斉に新聞に出てゐる。
昭和23(1948)年3月19日
米国大統領トルーマンが米の両院議院で行った演説が新聞にのってゐる。これは現在の危機に対する米の態度を決するものとして、世界から期待されたものである。
昭和23(1948)年5月3日
今日は新憲法施行の一周年だといふので、全国休日となった。何だか日本国民の二十四時間ストライキの様な気がして、祝祭日といふ様な気持ちにはなれない。マックアーサーは日本国民に与ふといふ声明書を出した。翻訳のせいか新聞で見た所では、一寸[ちょっと]難解の様に思はれた。…この憲法が果して日本の不磨の大典となるか如何か私共は未だ確信を得ない。趣旨においてよいとしても、日本国民は外国から配給の憲法では何だか満足が出来ない様な気がする。
昭和23(1948)年12月9日
今日東芝の総会で、私は取締役に選任された。この話は本年七月始めからの事であった。その後半年に亘[わた]って色々曲折はあったが、結局今日の様になった。
昭和24(1949)年1月7日
日記が途切れゐる時は、かえって色々の事があって筆とる閑がなかったのである。日記をつけてゐる時の方が、平穏な時であった。第一生命をやめて丸二ヶ年を経過したが、この二ヶ年は私にとっても日本にとっても実に名状し難い苦難の時であった。しかし二十三年は二十二年に比べて精神的に物質的に幾分楽になった事は事実である。今年は如何いふ事になるか、早く復興再建の域に向ひ度[た]いものである。…この頃私は毎日東芝へ出かけるが、これといふ定った仕事もないので、何となく安定性を欠いてゐる。しかし気持ちはよい。終戦後始めてのさっぱりした気分である。
昭和24(1949)年1月19日
この頃急に忙がしくなって仕舞[しま]った。全く手紙を書く閑さへない。…東芝では、如何ういふ訳か役員会を会社で開かず、交詢社とか日本クラブとか、工業倶楽部とか、鉄道協会とか、転々として変って歩いてゐるので、自分の席へ戻る閑がない。これは幹部が組合に押しかけられるのを廻避する為だと思ふが、少し馬鹿げてゐる様に思はれる。費用と時間の浪費で、社員は役員に会ふ事も出来ず、私でさへも誰が何処にゐるか判らない。
昭和24(1949)年4月4日
忙がしいので暫く日記を怠った。想ひ出しても不愉快であった。
昭和24(1949)年7月7日
七月六日午後、ラヂオは国鉄総裁下山氏が今朝家を出たなり行衛[行方]不明だと放送したが、七日朝に至り、同氏の惨死体が東北線綾瀬駅附近の鉄道線路に発見されたと報じた。国鉄では両三日前より人員整理を発表し、組合との間に団交を開始してゐたが、元より妥協点に達せず。国鉄側は交渉を打切り整理を発表したのであったが、その結果遂にこの惨事を見るに至ったのである。