国立国会図書館憲政資料室 日記の世界

キーワード一覧

日記から引用した一節を、特定の内容でまとめてご覧になれます。

キーワード:第二次世界大戦

昭和16(1941)年12月25日

クリスマスに香港陥落 第二次世界大戦 クリスマス
詳しく

Christmas-Weihnachten[クリスマス独語]-Natale[クリスマス伊語]. 香港陥落の吉報、これは英米に与ふる精神的打撃大きい。午後事務所にて今迄の機密記録を整理す。午后入浴等をし、明治天皇今上陛下の御真影[ごしんえい]を飾る。
昭和17(1942)年3月5日

東京での空襲警報  第二次世界大戦
詳しく

今朝八時過空襲警報あり。南鳥島附近迄、米航空母艦より出たる航空機三十機来襲の由。内七機撃墜、後は撃退。
昭和19(1944)年1月1日

戦争三年目、戦局の曲り角  第二次世界大戦
詳しく

大東亜戦争始まって、三度目の元旦を迎えた。戦局は厳しく苛烈となり、本年こそは愈々決戦の年と敵も味方もいふ。世相も大分変って来た。食糧も大分窮屈になって来た。
昭和19(1944)年2月1日

マーシャル方面の戦況を聞いて  第二次世界大戦
詳しく

どうもマーシャル方面は模様がよくない様です。…アワテチャいけない、未だ判らないのだ。
昭和19(1944)年7月5日

戦局いよいよ切迫  第二次世界大戦
詳しく

事態は愈々[いよいよ]接迫した。午後三時の放送によると、小笠原父島へ敵機百機が来襲し、且つ艦砲射撃を受けてゐるとの事である。…サイパンも重囲の裡[うち]にある。
昭和19(1944)年7月8日

サイパン玉砕  第二次世界大戦
詳しく

サイパン島玉砕[ぎょくさい]の事実、敵愾心を煽る。玉砕に対し黙祷。最前線の覚悟、戦意を失ふな。本土を守れ。
昭和19(1944)年8月2日

東条内閣総辞職  第二次世界大戦
詳しく

到々東条内閣は総辞職を決行した。噂によるとその退き際の態度は甚だ宜しくなかった様だ。後継は小磯米内両大将に大命が降下した。そして小磯内閣が出来た。後継後未だ何もしてゐないので、別段これといふ事もないが東条が去った事だけは一般に喜ばれた様だ。それに干係[関係]なく戦局はドンドン進行してゐる。テニアン大宮島(グアム)にも敵が上陸した。何れはサイパンの運命をたどるらしく見える。
昭和19(1944)年8月26日

戦況悪化  第二次世界大戦
詳しく

サイパンは遂に玉砕[ぎょくさい]した。テニアン、大宮島[グアム]は尚反抗をつゞけてゐる様であるが孤立無援の状態である。…何処へ行っても良い話はきかない。
昭和19(1944)年12月26日

空襲下の開院式  帝国議会 第二次世界大戦
詳しく

開院式-歴史初まって以来の空襲下の開院式。しかも御親臨あらせらるゝことを拝し、恐懼[きょうく]に堪えず。
昭和20(1945)年1月1日

新年のわびしい想い  第二次世界大戦 正月
詳しく

年歯今や三十八。近き次代を背ひ政治を担ふと予想せられる青年たち(特攻隊等に鍛へられた出征学徒軍人)と最早余りにもかけ離れた年令に達したことがわびしく考へられるこの元旦。
昭和20(1945)年2月27日

戦局悪化で意見いろいろ  第二次世界大戦
詳しく

児玉伯より電話。阿部、陸軍では岡田が大臣になりたがってあせっていると云ふ。重臣が陛下に拝謁の際平和のことを申上げたる処、「総て戦捷[戦勝]後だ」と仰せられし由。大島子、今のまゝではだめ、一般民を中部山脈地方へ追ひやり、手足まどいをなくして、本土作戦をすることを宣伝するつもりである、先づ明日研究会の常務委員会で話す、貴族院は衆議院や政府を鞭撻[べんたつ]して、立て直しをやって貰はねばだめだ、それが貴族院の責務だ。
昭和20(1945)年3月10日

東京大空襲の惨状  第二次世界大戦
詳しく

十二時過再び警報出で、忽[たちま]ち爆音高射砲音近辺に聞え空襲警報出づ、…後から後から続々と少数機にて侵入し来る。官舎門前に在りて暫し形勢観望したるも、事態容易ならず、しかも議事堂東側に極めて近接して猛火揚がるを見るに及び、車を命じて議事堂に馳けつける。通用門閉じありしも、運転手乗り越えこれを開き進む。時に一時頃。直ちに屋上に登り都内を見るに、足下の司法省、警視庁附属家等炎々と燃えてる最中なり。…
昭和20(1945)年3月10日

東京大空襲 第二次世界大戦
詳しく

警務課で話す。八時官長より電話にて、明日の議事順序を各派へ通報。九時司法省政府委員室にて就寝。警視庁報告に依れば、驚くべし――。絨壇[ママ](じゅうたん)爆撃。被害二十四万戸、九十一万人。死者一万四千人と情報あり。
昭和20(1945)年4月30日

ドイツの無条件降伏の情報 第二次世界大戦
詳しく

正午十分前、大塚君より電話、伯林[ベルリン]におけるヒトラー総統は、無条件降伏を為す事を決意し、四十八時間以内に通告するとの通信あり。
昭和20(1945)年5月25日

大空襲で議事堂も被災  第二次世界大戦
詳しく

青山赤坂方面より火勢強く、防空壕に一時待避して居たが危険に付、小林君の官舎を捨てて、十二時頃家族一同小熊の自動車にて脱出する。議会正門横にて下車登院、院内騒然。
昭和20(1945)年8月7日

広島の原子爆弾  第二次世界大戦
詳しく

正午過、岡田厚相来訪。広島に原子爆弾を六日午前八時半頃投下。十数万の死傷の趣、大塚地方総監爆傷死、畑元帥健在、高野知事は出張中にて救かる。成層圏より落下傘にて投下、地上二、三百米[メートル]にて爆裂、直径四キロ全壊全焼、ヱライことなり。
昭和20(1945)年8月8日

広島の原子爆弾の威力  第二次世界大戦
詳しく

曰[いわ]く「広島(東西一里、南北一里、半数疎開で現在人口二十万)へB29、 4機。午前八時半。原子爆弾らしく、人口半数たる十万人死亡せり」と。小村藤井正木すべてその他の人々の安否気づかはる。多くは望み無かるべし。…軍も相当に動揺せるものの如し。
昭和20(1945)年8月10日

無条件降伏に反対の阿南陸相  第二次世界大戦
詳しく

阿南陸相は、大東亜戦は国力全体の戦ひであるから、国家の決心に従ふのみ。但し軍は無条件降伏には承服し難し。武装解除したる後がこわい。何をされるか判らぬ。勿論現在の状勢に加ふるに、ソ連を更に敵に廻はし、原子爆弾を相手とするのでは、算盤[そろばん]上勝てぬことは明白。但し、英米に対して最後の一戦を試み、大打撃を与へることは充分の確信あり。
昭和20(1945)年8月11日

ポツダム宣言への対応  第二次世界大戦
詳しく

五時加瀬君来訪。十日午前六時発電、スウェーデンよりロシア、英[イギリス]、瑞西[スイス]より支那[中国]、米[アメリカ]、何れも到達せり。米は午后六時四十五分頃受取りたりと云ふ。重慶は爆竹、琉球基地は高射砲を発ち、サイレンをならし、B29を出さんとするも出るものなし。米、英も戦捷[戦勝]気分にひたりおれり。英は承知すべし。米も下にも反対のものもあるも、指導者は受諾すべし。重慶は蒋は反対せざるべきも一部に反対者あり。ロシアは不明。ロシアが承諾せざれば、一応は戦を継続するの外なし。陛下が戦を止めろと仰せられしは七月九日なり。
昭和20(1945)年8月15日

終戦と人々の反応 第二次世界大戦
詳しく

天皇陛下は親しくラヂオをもって、和平の詔勅を下し賜はった。これは尠[すくな]からず国民へ衝動を与へた。我国はポツダム宣言の趣旨に従って無条件降伏をしたのである。この事あって数日間は、我飛行機から抗戦論者のビラが撒布され、所々苛激[過激]文書の掲貼を見た。しかし大勢は格別な事もなく日を経るに従って鎮静した様である。しかし一部の兵は宮城に迫ったとか、上野愛宕山に立籠ったとか種々の噂さが立った。蓋[けだ]し事実であろう。
昭和20(1945)年8月15日

玉音放送を聞いて  第二次世界大戦
詳しく

小原、次田、矢吹、古島氏と正午の陛下の御放送を拝す。恐懼[きょうく]に堪えず。戦争責任者は自責に堪えざるべし。
昭和20(1945)年8月15日

玉音放送に涙す  第二次世界大戦
詳しく

正午、予算委員室にて、正副議長、余及全職員並[ならびに]居合せたる議員と共に、ラヂオを謹んできく。詔書を宣らせ賜ふ。玉音に、頭[こうべ]垂れ悲憤の涙抑へ難し。しかしこの恨みは何れは霽[は]らさむ。