国立国会図書館憲政資料室 日記の世界

大山巌

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大山巌の肖像写真

大山巌

おおやまいわお
1842年~1916年

大山巌の日記について

この電子展示会で見られる日記の概要

  • 1876年~1916年までの日記17冊。
    明治3(1870)年、4(1871)年の「第一回渡欧日記(観戦)」4冊、明治4(1871)年~1874年の「第二回渡欧日記(留学)」5冊、1884年の「第三回渡欧日記」2冊、西南戦争・日清戦争・日露戦争の「従軍日記」4冊、1878年の「北越御巡幸日記」1冊等あり。
  • 鉛筆書き又はペン書き。
  • 「日記」の一部は、博文館の当用日記や東京図書日記、国民日記等の市販の日記帳を使用。

大山巌の日記より

明治3年9月17日(1870年10月11日)

渡仏の洋上での想い  海外
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揚碇後、殆んど二十日になれども一島又は一舟を見ず。時に因て鷗[かもめ]の如きなる鳥の飛ぶあり。往昔「コロンヒス」(西班牙人[スペイン人]初て米利堅[アメリカ]を発見せし人)が米利堅を発見せしも、かくやあらんと思ひしられたり。
明治5年9月18日(1872年10月20日)

あるロシア人の訪問  海外
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夕景一人の魯西亜人[ロシア人]来る。よく日本を解す。その内に同行せん事を乞ふ。因て同車にて行き、夜八字[八時]帰る。この人は仏[フランス]にて我語を学びたりとて、よく字を読む。我も大に弁を得たり。故に一字づゝ互に教ゆる事を約す。
明治6(1873)年8月27日

ウィーンで目にとまったものは  海外
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この〔ウィーン〕府の目に留まるものは、美婦にして至処美人あらざるはなし。しかして多くは上郎と云ふ。実にこの府の繁花を知るべし。
明治6(1873)年12月25日

フランスでのクリスマス  海外クリスマス
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今日耶蘇[ヤソ]降生日なりとて客来在りて休業なり。
明治10(1877)年9月24日

西南戦争の終了  西南戦争
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払暁第四字[四時]、各旅団よりニ中隊づゝをもって進撃するに、僅か一字間[一時間]余の戦ひに巨魁悉く斃[たお]れ、七字[七時]過に至て全く戦ひ終る。午後大に雨降る。
明治27(1894)年1月1日

正月の天皇・皇族への挨拶回り  正月
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快晴。午前九時参朝、両陛下に拝謁し、青山御所に参り、皇太后に拝謁、続て東宮殿下に拝謁し、その後各親王に参賀して正午帰邸す。
明治27(1894)年11月12日

異国での誕生日 日清戦争海外誕生日
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今晩は予の誕生日なり。五十二年の誕生日を、清国盛京省の金州城内において祝するも、また愉快と云べし。
明治30(1897)年11月28日

友人、石黒忠悳との旅行 
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午前八時、西京[京都]停車所にて沼津に向て発す。石黒氏は名古屋にて下車一泊す。午後七時、沼津に着す。
明治33(1900)年8月18日

海軍経由で知った北京陥落  事件
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十時参部、北京を取りたる電信海軍え達す。去十五日夕刻と云事なり。未だ陸軍には何たる報知も来らず。
明治33(1900)年9月19日

風邪でも海軍大臣の招きは断れない 
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風邪気分にて出勤せず。海軍大臣の招きには致方なく行けり。
明治34(1901)年1月15日

大山の病休  疫病
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流行感冒なりとて熱度あり。終日床上に臥す。今日より始[はじまら]んと、五十日間には人にも面会せず。一時は肺炎になり、熱度も四十度近く上れり。この間の日記を休む。
明治38(1905)年1月1日

元旦、旅順の敵将降伏の報あり 日露戦争正月
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午前十一時、将校始め奏任官年首の祝儀を述ぶる為め来訪。午後二時、第二軍外国従軍武官一同是又新年祝儀を述べたり。終りて日本流のトソ酒肴を出し宴会を開き、十二分の喜びを尽して夜に入て帰れり。時に午後三四時頃旅順より電報あり、望台を占領せりと。その後続て好報あり、午後十時に到り敵将ステツセール[Анатолий Михайлович Стессель]より開城の申込みありたるとの事なり。それより再び将校以上集会し、盛かんに陛下の万歳を唱へ、兵卒に到る迄皆集り、軍歌をうとうて天地も倒るばかり盛会なりし。
大正5(1916)年1月19日

ロシア皇族の晩餐  外交
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今朝九時宮内省参内す。午後七時露国皇族の御招きの晩餐に、霞ヶ関御用邸に参邸して十時半帰邸す。多数の人なりし。

大山巌の日記一覧 (国立国会図書館デジタルコレクション収録分のみ)

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