渡仏の洋上での想い 海外 詳しく
揚碇後、殆んど二十日になれども一島又は一舟を見ず。時に因て鷗[かもめ]の如きなる鳥の飛ぶあり。往昔「コロンヒス」(西班牙人[スペイン人]初て米利堅[アメリカ]を発見せし人)が米利堅を発見せしも、かくやあらんと思ひしられたり。
おおやまいわお
1842年~1916年
揚碇後、殆んど二十日になれども一島又は一舟を見ず。時に因て鷗[かもめ]の如きなる鳥の飛ぶあり。往昔「コロンヒス」(西班牙人[スペイン人]初て米利堅[アメリカ]を発見せし人)が米利堅を発見せしも、かくやあらんと思ひしられたり。
夕景一人の魯西亜人[ロシア人]来る。よく日本を解す。その内に同行せん事を乞ふ。因て同車にて行き、夜八字[八時]帰る。この人は仏[フランス]にて我語を学びたりとて、よく字を読む。我も大に弁を得たり。故に一字づゝ互に教ゆる事を約す。
この〔ウィーン〕府の目に留まるものは、美婦にして至処美人あらざるはなし。しかして多くは上郎と云ふ。実にこの府の繁花を知るべし。
払暁第四字[四時]、各旅団よりニ中隊づゝをもって進撃するに、僅か一字間[一時間]余の戦ひに巨魁悉く斃[たお]れ、七字[七時]過に至て全く戦ひ終る。午後大に雨降る。
快晴。午前九時参朝、両陛下に拝謁し、青山御所に参り、皇太后に拝謁、続て東宮殿下に拝謁し、その後各親王に参賀して正午帰邸す。
十時参部、北京を取りたる電信海軍え達す。去十五日夕刻と云事なり。未だ陸軍には何たる報知も来らず。
流行感冒なりとて熱度あり。終日床上に臥す。今日より始[はじまら]んと、五十日間には人にも面会せず。一時は肺炎になり、熱度も四十度近く上れり。この間の日記を休む。
今朝九時宮内省参内す。午後七時露国皇族の御招きの晩餐に、霞ヶ関御用邸に参邸して十時半帰邸す。多数の人なりし。
年
1870第一回渡欧日記〔一〕 明治3年8月26日~明治4年2月24日
【大山巌関係文書(寄託)22-1】
年
1870第一回渡欧日記〔二〕 明治3年8月25日~明治4年5月5日
【大山巌関係文書(寄託)22-2】
年
1871第一回渡欧日記〔三〕 明治4年2月25日~明治4年5月5日
【大山巌関係文書(寄託)22-3】
年
1871日記 〔明治4年もしくは5年〕4月25日~6月24日
【大山巌関係文書(寄託)22-4】
年
1871第二回渡欧旅日記 明治4年11月13日~明治5年8月8日
【大山巌関係文書(寄託)22-5】
年
1872第二回渡欧日記〔一〕 明治5年5月~7月頃
【大山巌関係文書(寄託)22-6】
年
1872明治後六年(第二次)欧洲留学中会計日記 明治5~6年
【大山巌関係文書(寄託)23-3】
年
1873第二回渡欧日記〔ニ〕 明治6年
【大山巌関係文書(寄託)22-7】
年
1873日記(第二回渡欧) 明治6年4月4日~4月10日、明治7年5月1日、11月3日~24日、明治8年3月31日~4月15日(仏文)
【大山巌関係文書(寄託)22-8】
年
1874佛文日記 明治7年
【大山巌関係文書(寄託)22-9】
年
1876日記 明治9年
【大山巌関係文書(寄託)22-10】
年
1877〔従軍日記〕 明治10年6月1日~10月1日
【大山巌関係文書(寄託)22-11】
天保13(1842).10.10鹿児島生まれ。西郷隆盛の従弟。戊辰戦争参加を経て、明治3(1870).8~4(1871).3欧州差遣、明治4(1871).7陸軍大佐、明治4.8陸軍少将、明治4.11~1874.10フランス・スイス留学、帰朝後陸軍の建設にあたる。1875.11~78.12陸軍省第1局長、1877.2西南戦争出征、熊本城篭城の際攻城砲兵指揮官、1878.12兼参謀本部次長、1879.10兼大警視、1880.2兼陸軍卿、1881.11兼参議、1882.9兼参謀本部長、1885.12第1次伊藤内閣陸軍大臣、以後第2次松方内閣発足時まで在職(~1896.9)、1886.7~87.7兼海軍大臣、1891.5陸軍大将、枢密顧問官、1894.9第2軍司令官、1898.1元帥の称号を受ける、1898.2東宮御補導、1899.5参謀総長、1904.5満洲軍総司令官、1905.12参謀総長、1907.9公爵、1914.4内大臣、1916.12.10死去。
(リサーチ・ナビ「大山巌関係文書(寄託)」より)
近代日本人の肖像より