大正10(1921)年11月4日
原敬暗殺事件報
事件 詳しく
原首相、午後七時二十五分東京駅にて暗殺の報を聞き、総理大臣邸に立寄る。野田逓相、浅田徳則等在り。帰路金子子爵邸に立寄り、兇変を告げ善後策を談ず。犯人は中岡艮一。(十九才、東京大塚駅ポイントメン)。
大正10(1921)年11月4日
原首相、午後七時二十五分東京駅にて暗殺の報を聞き、総理大臣邸に立寄る。野田逓相、浅田徳則等在り。帰路金子子爵邸に立寄り、兇変を告げ善後策を談ず。犯人は中岡艮一。(十九才、東京大塚駅ポイントメン)。
大正11(1922)年5月4日
一、徳川邸に三浦、黒田、岡崎会合、岡崎氏よりこの際全く取るべき策無く、何分宜敷願ふとの事なり。
大正11(1922)年5月8日
一、浜口雄幸氏邸を訪問、先日来訪挨拶なり。憲政会が内閣を組織したる場合、研究会は現在の政策を捨て協同し得るや否やの問。答(一)何人か余以外にこの件に干[関]し答弁者を見出す事。(二)議員となりてこの精神を遂行する決心をする事。(三)決心出来ざれば全く政界より引退する事。(四)数日間考慮して武士的に解決する事。
大正11(1922)年5月10日
一、夜黒田子訪問。一、郷男爵本日来訪の由。訴訟の件は中止、理由書の発表も見合はす事、尚友会に入会して華族統一に賛成。
大正12(1923)年8月24日
加藤首相薨去[こうきょ]。
大正12(1923)年9月1日
晴天。東京大地震。余日本クラブにあり。食堂に赴かんとする為、階段を昇る中途よりふらふら、殆んど転倒せんばかりにて、玄関より道路に走り出て、直[ただち]に自働[動]車にて西片母上を訪ひ、原町宅に帰る。それより昼夜震動絶へず。東京大半焼失の由。
大正12(1923)年9月1日
午前十一時五十五分大地震。…火災盛んなりしをもって、築地一角を救はんとして蒸汽ポンプを尋ねしが、一台も来らず。工兵無能驚くべし。午后八時過、別宅及事務所全焼す。
大正12(1923)年9月2日
王子邸を見舞ふ。破損甚し。渋沢大人夫人武之助等、庭に仮り屋を作り居る。正雄氏消息不明の由。大人と相談し、救済及復活に付大方針を首相市長総監会議所会頭に申送る。
大正14(1925)年5月11日
天皇皇后両陛下銀婚式に付、日本クラブ奉祝午餐会。余座長として演説す。関屋宮内次官、皇室の近状に付て話あり。右銀婚式に付、御所へ参賀す。立食の饗あり。記念の御杯を賜ふ。
大正15(1926)年10月22日
晴天、申分なき気候なり。午前八時、外苑広場にて清祓[きよはらい]を行ふ。午后二時、摂政殿下行啓、竣工奉献式を行ふ。
昭和元(1926)年12月25日
都門出発湯河原に入る。午前一時二十五分、聖上葉山御用邸において崩御遊ばさる。摂政宮御践祚[せんそ]、百二十四代の大統御継承。改元、昭和。午前十時、新橋発。田中さわ、国谷千代両女帯同、相州湯河原温泉天野屋に入り五十三号室に滞留す。
昭和4(1929)年7月2日
午後一時参内、御座所において拝謁仰せつけられ、内閣組織の大命を拝す。御前退下、直に山本、若槻両氏を訪ひ大命拝受の旨披露し、組閣の腹案を示し同意を得。午後二時半帰邸、直に組閣に着手。午後六時一切の準備を了し、閣員名簿を作成し、六時十五分参内。名簿捧呈。