明治43(1910)年1月4日
陸軍大臣が気にかける満洲
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陸軍大臣余を官房に招く。満洲旅行前談話したき希望を有するによる。主として、関東都督と領事と満鉄等の関係に関する件なり。
明治43(1910)年1月4日
陸軍大臣余を官房に招く。満洲旅行前談話したき希望を有するによる。主として、関東都督と領事と満鉄等の関係に関する件なり。
大正元(1912)年7月30日
〇本日大正タイシャウ元年と改元せらる。公羊伝[くようでん]曰、 「君子大居正」[君子は正[せい]に居ることを大なりとす]。易曰、「大亨以正天之道」[大いに亨[とお]りて以て正しきは、天の道なり]。
大正2(1913)年12月19日
宮内省出頭、井の頭御料林御下賜あり。
大正3(1914)年1月27日
大正博覧会東京市特別館の工事を見る。
大正3(1914)年1月29日
紅葉館に商工調査委員を招待す。今日衆議院本議場にて、シーメンス事件の質問あり。世論囂々[ごうごう]たり。プーレー氏取調を受く。
大正3(1914)年8月23日
正午日独国交断絶、…世界は大変、成敗は大人物の出現するや否に存す。予想、欧洲大激戦は九月中一段落、その後は局部戦となり本年内に平和回復のこと、但国土分配に付、再び破裂するや否は知るべからず。
大正3(1914)年9月13日
大島陸軍次官より機密電。閣下は、来る十五日附をもって大将進級の上、後備仰付[おおせつけ]らるゝ筈、発令まで秘密とせられたし。
大正4(1915)年2月3日
余は電燈問題不調に付、責を引て辞任の旨を言明し、告別の挨拶を述べたり。松木局長も辞任申出たり。
大正5(1916)年1月15日
本日まで議院休会。世襲財産小委員会、岡野、富井、奥田三博士修正の案を提出、宮内省側吉田平吾氏の意見あり。研究会大蔵部会、市来、神野両局長の説明あり。追加予算に干[関]し、三千八百万円募債と還元説との説明。
大正5(1916)年1月19日
今朝九時宮内省参内す。午後七時露国皇族の御招きの晩餐に、霞ヶ関御用邸に参邸して十時半帰邸す。多数の人なりし。
大正5(1916)年5月21日
汽車中、山間森林を通過す。景色よし。人気質朴一般に露国[ロシア]より富有に見ゆ。
大正5(1916)年6月11日
今日の戦は兵器の戦にて、人の戦に非[あら]ず。兵器中に魂入り、魂によりて刀を作るに非ず。独帝はウヅメの命[みこと]の弟少彦命[すくなひこのみこと]の連なる故、日本には利益なり。露英は日本に害あり。支那伏羲[ふっき]はイザナミ命、神農は佐田彦[さたひこ]、黄帝は素サノウの命なり。龍に上る三名土をいぢる故に、尭[ぎょう]を代表者として天下を渡せり。人君にして神君に非ず。
大正5(1916)年11月3日
本日中央新聞夕刊に、結城城跡に二億円埋蔵の記事あり。
大正6(1917)年1月23日
寺内首相、本野外相演舌、大隈侯出席。欧州交戦国慰問決議、黒田侯提出。
大正6(1917)年8月27日
赤星邸にて支那南方の張継、戴傳賢、福長、岩下の事情聞取。清朝后腐敗。朝旨退歩、軍隊圧迫。段の勢力は格別なし。
大正7(1918)年4月22日
常務委員重任決す。協同会幹事神田男如何。土曜会の人数多し。真田男を減ずるも可。
大正7(1918)年4月28日
Sibeの事情悪くなる。英米とも過激派に通じて利権を得る事を勉む。米国より提案して日本にて出兵の場合に、大部隊を出す時米国の兵を参加せしむるや否や。
大正7(1918)年5月12日
水曜日。大浦子事務所より電話、一、鳥取の石谷はその友人より、鎌倉に来り相談すとの話なり。一、愛媛、熊本は直接の干係[関係]なし、下岡、安達と相談せん、両人とも目下奈良に出張中。