昭和5(1930)年1月11日
金解禁、シャンペンで祝杯
経済 詳しく
〇愈々[いよいよ]金解禁の当日なり、万事平穏順調些の動揺なし。安心。〇市場平穏、株式しっかり。〇食堂にてシャンペンを抜き祝杯を挙ぐ。
昭和5(1930)年1月11日
〇愈々[いよいよ]金解禁の当日なり、万事平穏順調些の動揺なし。安心。〇市場平穏、株式しっかり。〇食堂にてシャンペンを抜き祝杯を挙ぐ。
昭和5(1930)年1月11日
民政党内閣濱口総理大臣、井上準之助蔵相の御手柄。金輸出解禁の日。
昭和5(1930)年2月23日
こはれた小橋に濁つた小川、無残(無産)の戦はどれもいや(本所)
昭和5(1930)年2月24日
濱口首相の声明に、小党派の人の当選少きは、民衆が大政党の分立する政党的覚醒が充分で、主義主張の不確実な小党派が認められざるに至れるなりとの事。…政党が団結して悪事を遂行する事甚しき間は、僕は人物本位なり。
昭和5(1930)年11月14日
午前九時発「燕」号にて出発の間際[まぎわ]、八時五十七分東京駅プラットフオ-ムにおいて、佐郷屋留雄[さごうやとめお]なる一青年の為、モーゼル式拳銃をもって狙撃せられ、弾丸下腹部に命中、重傷を負ふ。
昭和5(1930)年12月9日
国勢調査の結果により、人口発表あり。内地の人口は、6444万7724人、男女別は、男101に対して女100。市では第一が大阪で245万、東京は207万(しかし東京府としては540万8千、大阪府は354万)、第三は名古屋90万7千、第四が神戸78万7千、第五が京都76万5千、次が横浜広島福岡長崎函館呉仙台札幌(16万8千)の順。
昭和5(1930)年12月10日
JOAK今日から二重放送。但一月三十一日迄は試験で二月一日から本放送。
昭和5(1930)年12月22日
浜口首相遭難に対する慰問決議をなしては如何[いかん]との議あり。(小山副議長よりの申出ならん)。前例としては、伊藤公遭難の際の一例あり。
昭和6(1931)年11月11日
午前一時五十分、渋沢子爵薨去す。
昭和7(1932)年5月15日
今夕五時半、首相官邸において首相兇手に倒る。十一時半薨去。陸海軍将校、候補生十八名一団。夜九時、私邸弔問。
昭和7(1932)年8月30日
Nazisは全員BraunのUniformに革のBandで入場着席。とても壮観偉観だ。しかも三分の一以上を占める優勢ぶり。
昭和10(1935)年7月10日
六十七議会専用庁舎図書館本建築を、憲法発布五十年紀念事業として予算をとるの件は、決議案可決ありたるも、十一年分としては主計局として内交渉の結果要求せざることとす。
昭和11(1936)年2月26日
雪。今朝七時半頃、警務課より電話、首相、内大臣、侍従長、蔵相、教育総監、青年将校軍隊の襲撃を受け、即死または重傷の由。
昭和11(1936)年8月1日
四時少し過ぎ、大総統(Führer)Hitler氏幕僚を随[したが]へ入場。花わ一斉に手を揚げHeil-Hitlerを叫ぶ。各国々旗掲揚。Olympiaglockeを鳴らす。かくして各国選手の入場式始まる。…日本は二十五六番目(中央)に大島旗手を先頭に堂々と入場。
昭和13(1938)年3月13日
相模行、みぞれ交りの雨中、一ラウンドす。帰途、昭和館にてモダーンタイムス見物。
昭和14(1939)年1月23日
久方振りのNo enkai nightで帰宅す。
昭和14(1939)年12月27日
初て議場に行く。今日は陸海軍に対する感謝決議あることとて11p.m.行く。先づ10.30貴族院、一条公の決議案朗読あって、陸海軍大臣の謝辞。次で12.20衆議院にて小川郷太郎、山崎達也の決議朗読。陸海軍大臣の謝辞あって終る。