国立国会図書館憲政資料室 日記の世界

石坂泰三

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石坂泰三の肖像写真

石坂泰三

いしざかたいぞう
1886年~1975年

石坂泰三の日記について

この電子展示会で見られる日記の概要

  • 「初台の第三時代」は1935年の回顧録。
  • 「大東亜戦争の酣なる頃から降伏に至る前後 思ひ出づるまゝ これが民間から見た真の歴史である」は、1942年の日記。一部英文。
  • 「敗戦之悲哀」は1946年の日記。家族への想いも綴られる。
  • そのほか無題の1944年の日記帳がある。

石坂泰三の日記より

昭和18(1943)年1月9日

国策で大銀行の合併  経済
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暮の二十八日であったか、突如として三井第一、三菱第百の大銀行がそれぞれ合同を発表した。その翌日、第一の明石頭取に逢ったら三井第一の両行は互に信用をしてそのまま合併をする、従って両行共解散交付金の如き事はないとの事であった。
昭和19(1944)年1月1日

戦争三年目、戦局の曲り角  第二次世界大戦
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大東亜戦争始まって、三度目の元旦を迎えた。戦局は厳しく苛烈となり、本年こそは愈々決戦の年と敵も味方もいふ。世相も大分変って来た。食糧も大分窮屈になって来た。
昭和19(1944)年2月1日

マーシャル方面の戦況を聞いて  第二次世界大戦
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どうもマーシャル方面は模様がよくない様です。…アワテチャいけない、未だ判らないのだ。
昭和19(1944)年5月20日

内閣の評判  第二次世界大戦
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この頃東条内閣の評ばんが恐ろしく悪い様だ。
昭和19(1944)年7月5日

戦局いよいよ切迫  第二次世界大戦
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事態は愈々[いよいよ]接迫した。午後三時の放送によると、小笠原父島へ敵機百機が来襲し、且つ艦砲射撃を受けてゐるとの事である。…サイパンも重囲の裡[うち]にある。
昭和19(1944)年8月2日

東条内閣総辞職  第二次世界大戦
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到々東条内閣は総辞職を決行した。噂によるとその退き際の態度は甚だ宜しくなかった様だ。後継は小磯米内両大将に大命が降下した。そして小磯内閣が出来た。後継後未だ何もしてゐないので、別段これといふ事もないが東条が去った事だけは一般に喜ばれた様だ。それに干係[関係]なく戦局はドンドン進行してゐる。テニアン大宮島(グアム)にも敵が上陸した。何れはサイパンの運命をたどるらしく見える。
昭和19(1944)年8月26日

戦況悪化  第二次世界大戦
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サイパンは遂に玉砕[ぎょくさい]した。テニアン、大宮島[グアム]は尚反抗をつゞけてゐる様であるが孤立無援の状態である。…何処へ行っても良い話はきかない。
昭和20(1945)年8月15日

終戦と人々の反応 第二次世界大戦
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天皇陛下は親しくラヂオをもって、和平の詔勅を下し賜はった。これは尠[すくな]からず国民へ衝動を与へた。我国はポツダム宣言の趣旨に従って無条件降伏をしたのである。この事あって数日間は、我飛行機から抗戦論者のビラが撒布され、所々苛激[過激]文書の掲貼を見た。しかし大勢は格別な事もなく日を経るに従って鎮静した様である。しかし一部の兵は宮城に迫ったとか、上野愛宕山に立籠ったとか種々の噂さが立った。蓋[けだ]し事実であろう。
昭和20(1945)年10月2日

戦争を振り返って 
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余り馬鹿々々敷[しく]もあり、悲凄でもあったので日記をつける気にもならない間に、凡そ天地は転倒してしまって、大日本帝国は崩壊に突入して仕舞った。振り返って考へれば、我々も申訳のない相済まぬ態度をとって来たものである。それには生命の犠牲が百パーセントあった許[ばか]りにこんな事になったのである。それでもよいか、犬死といふ事も見通しがついてゐたのだ。我は草莽の一野人である。日本の要人は悉く責任がある!!!
昭和21(1946)年3月3日

息子の戦死の状況を知る
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泰介の死迄行を共にした大倉軍曹(邦男)が初台へ訪ねてくれて、泰介が昭和二十年五月二日午前二時、比島[フィリピン島]ルソンのカヤパ山中で倒れた事を詳細話してくれた。これで始めて命日や場所が判ったのである。大倉氏は泰介の遺骸を北を枕にして埋葬して呉れたそうだ。
昭和21(1946)年5月1日

11年ぶりのメーデー  経済
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天気予報は雨を報らせて居ったが、朝起きて見ると太陽が輝いてゐる。しかし相当強い風が吹いてゐて、予報の通り天気が続きそうもない。今日はメーデーである。新聞によると、三十万の人がこの労働記念日に参加して一大示威運動を展開するといふ。宮城前の広場には紅白の布で巻いたプラットフォームが出来て今日の大会を待ってゐる。それが去年の今日はメーデーの催がなかったのは勿論、メーデーと口にする事さへ憚[はばか]らねばならなかったのであるから驚く。何たる変化であらう。
昭和22(1947)年9月2日

A級戦犯容疑者の釈放 
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今朝の新聞によると、鮎川氏始め二十数名のA級戦犯容疑者が釈放された。巣鴨に行ってから一年、やがて二年にもなるだらう。戦犯がもし日本を侵略戦に導いたといふ点にあるなら彼等は当然釈放されて然るべしだと思ふ。何にしてもお気の毒の事であったが、まァよかった。
昭和22(1947)年9月20日

未曽有の台風による大洪水 
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十四、十五、十六、十七、十八日臀部腫物の為め臥床。この間カザリン台風襲来。風は格別の事なかりしも、未曽の雨量の由にて関東大洪水。利根荒川堤防決解[決壊]して九月二十日に至り、遂に江東も浸水。
昭和22(1947)年10月14日

宮家解体 
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昭和二十二年十月十四日の皇族会議で、宮家も秩父、高松、三笠の三宮家を除く外は、五十幾名かの宮様が悉く臣籍に落されて仕舞った。これからは悉く平民である。しかも軍籍にあった宮様は公職追放令にかかって我々と同様になってしまった。
昭和22(1947)年11月1日

外務大臣公邸に招かれて  選挙
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五時から芦田君が数人の友人を目黒の官邸に招待してくれた。…彼は民主党総裁であり外務大臣であるが、今の内閣も第一生命同様、随分弱いもので、最もこれはGHQの軍政の下にあるので、誰でも如何する事も出来ないのだが、丁度平野農相の追放の問題が起った際なので内閣も相当ゴタゴタしてゐるらしかった。一方保守政党の団結による新党結成の問題もあり、芦田君も今では総理大臣を夢みてゐるかも知れない。
昭和22(1947)年11月24日

今日の読書  図書館・読書
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パスカルのポンセ―を読む。中々難解であるが、所々何物かを脳裡に遺[のこ]す。
昭和22(1947)年11月26日

電力不足による満員電車に乗って  経済
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この頃の電車やバスは、実際窒息しそうな混雑である。電力不足の為め車台の数を減らした為らしい。何としても非常な苦痛で全くなさけなくなる。しかしパスカルはその冥想録において「廃黜[はいちゅつ]された王でなくして誰が王でない事を不幸だと思ふであらうか。…又眼を一つだけ持ってゐるのを不幸だと思はぬ者があらうか。人は恐らく眼を三つ持たない事を敢て悲しみはすまい」と云っている。大正十二年の震災から自働[動]車に乗って二十五年、今年自働[動]車がなくなってこの交通地獄に逢ふのは果して不幸であらうか。
昭和22(1947)年12月25日

地味なクリスマス  クリスマス
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今日はクリスマスである。昨年はGHQにはイルミネーションやクリスマストリ―があったが、今年は何らそんな設備はなかった。日本の経済状態の現状に鑑み、連合軍でも遠慮したものと思はれる。
昭和22(1947)年12月28日

ラグビーインターハイの準決勝  娯楽
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今日はラグビーインターハイのセミファイナルで、成蹊と成城が顔を合せさ[わせ]た。9対6で成蹊が敗れたと見に行った信雄が知らせた。スポーツは勝負に余り重を置いていけないと云って居乍[おりなが]ら敗けるのは淋しい。泰夫は成蹊のキャプテンをしてゐる。
昭和22(1947)年12月31日

大晦日に 
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到々[とうとう]大晦日になった。一九四七年よ、おさらばである。
昭和23(1948)年2月7日

株価高騰の末立会停止 経済
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ここ二、三日証券界は大暴騰をつゞけ、今日は遂に立会停止となった。インフレ時代とは云へ従来にない騰[あが]り方であった。あるものは一度に百円以上も高くなった。千円以上の株が二、三出て来た。平時三十五、六円であった発送電の株が百四、五十円にもなったといふ始末である。
昭和23(1948)年3月19日

トルーマンの演説 
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米国大統領トルーマンが米の両院議院で行った演説が新聞にのってゐる。これは現在の危機に対する米の態度を決するものとして、世界から期待されたものである。
昭和23(1948)年5月3日

新憲法一周年  日本国憲法
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今日は新憲法施行の一周年だといふので、全国休日となった。何だか日本国民の二十四時間ストライキの様な気がして、祝祭日といふ様な気持ちにはなれない。マックアーサーは日本国民に与ふといふ声明書を出した。翻訳のせいか新聞で見た所では、一寸[ちょっと]難解の様に思はれた。…この憲法が果して日本の不磨の大典となるか如何か私共は未だ確信を得ない。趣旨においてよいとしても、日本国民は外国から配給の憲法では何だか満足が出来ない様な気がする。
昭和23(1948)年12月9日

東芝取締役就任  経済
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今日東芝の総会で、私は取締役に選任された。この話は本年七月始めからの事であった。その後半年に亘[わた]って色々曲折はあったが、結局今日の様になった。
昭和24(1949)年1月7日

 苦しかったこの2年
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日記が途切れゐる時は、かえって色々の事があって筆とる閑がなかったのである。日記をつけてゐる時の方が、平穏な時であった。第一生命をやめて丸二ヶ年を経過したが、この二ヶ年は私にとっても日本にとっても実に名状し難い苦難の時であった。しかし二十三年は二十二年に比べて精神的に物質的に幾分楽になった事は事実である。今年は如何いふ事になるか、早く復興再建の域に向ひ度[た]いものである。…この頃私は毎日東芝へ出かけるが、これといふ定った仕事もないので、何となく安定性を欠いてゐる。しかし気持ちはよい。終戦後始めてのさっぱりした気分である。
昭和24(1949)年1月19日

 東芝の内部事情 経済
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この頃急に忙がしくなって仕舞[しま]った。全く手紙を書く閑さへない。…東芝では、如何ういふ訳か役員会を会社で開かず、交詢社とか日本クラブとか、工業倶楽部とか、鉄道協会とか、転々として変って歩いてゐるので、自分の席へ戻る閑がない。これは幹部が組合に押しかけられるのを廻避する為だと思ふが、少し馬鹿げてゐる様に思はれる。費用と時間の浪費で、社員は役員に会ふ事も出来ず、私でさへも誰が何処にゐるか判らない。
昭和24(1949)年4月4日

 日記も書けない多忙の日々
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忙がしいので暫く日記を怠った。想ひ出しても不愉快であった。
昭和24(1949)年7月7日

下山事件  事件
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七月六日午後、ラヂオは国鉄総裁下山氏が今朝家を出たなり行衛[行方]不明だと放送したが、七日朝に至り、同氏の惨死体が東北線綾瀬駅附近の鉄道線路に発見されたと報じた。国鉄では両三日前より人員整理を発表し、組合との間に団交を開始してゐたが、元より妥協点に達せず。国鉄側は交渉を打切り整理を発表したのであったが、その結果遂にこの惨事を見るに至ったのである。

石坂泰三について

履歴

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