国策で大銀行の合併 経済 詳しく
暮の二十八日であったか、突如として三井第一、三菱第百の大銀行がそれぞれ合同を発表した。その翌日、第一の明石頭取に逢ったら三井第一の両行は互に信用をしてそのまま合併をする、従って両行共解散交付金の如き事はないとの事であった。
いしざかたいぞう
1886年~1975年
暮の二十八日であったか、突如として三井第一、三菱第百の大銀行がそれぞれ合同を発表した。その翌日、第一の明石頭取に逢ったら三井第一の両行は互に信用をしてそのまま合併をする、従って両行共解散交付金の如き事はないとの事であった。
大東亜戦争始まって、三度目の元旦を迎えた。戦局は厳しく苛烈となり、本年こそは愈々決戦の年と敵も味方もいふ。世相も大分変って来た。食糧も大分窮屈になって来た。
どうもマーシャル方面は模様がよくない様です。…アワテチャいけない、未だ判らないのだ。
この頃東条内閣の評ばんが恐ろしく悪い様だ。
事態は愈々[いよいよ]接迫した。午後三時の放送によると、小笠原父島へ敵機百機が来襲し、且つ艦砲射撃を受けてゐるとの事である。…サイパンも重囲の裡[うち]にある。
到々東条内閣は総辞職を決行した。噂によるとその退き際の態度は甚だ宜しくなかった様だ。後継は小磯米内両大将に大命が降下した。そして小磯内閣が出来た。後継後未だ何もしてゐないので、別段これといふ事もないが東条が去った事だけは一般に喜ばれた様だ。それに干係[関係]なく戦局はドンドン進行してゐる。テニアン大宮島(グアム)にも敵が上陸した。何れはサイパンの運命をたどるらしく見える。
サイパンは遂に玉砕[ぎょくさい]した。テニアン、大宮島[グアム]は尚反抗をつゞけてゐる様であるが孤立無援の状態である。…何処へ行っても良い話はきかない。
天皇陛下は親しくラヂオをもって、和平の詔勅を下し賜はった。これは尠[すくな]からず国民へ衝動を与へた。我国はポツダム宣言の趣旨に従って無条件降伏をしたのである。この事あって数日間は、我飛行機から抗戦論者のビラが撒布され、所々苛激[過激]文書の掲貼を見た。しかし大勢は格別な事もなく日を経るに従って鎮静した様である。しかし一部の兵は宮城に迫ったとか、上野愛宕山に立籠ったとか種々の噂さが立った。蓋[けだ]し事実であろう。
天気予報は雨を報らせて居ったが、朝起きて見ると太陽が輝いてゐる。しかし相当強い風が吹いてゐて、予報の通り天気が続きそうもない。今日はメーデーである。新聞によると、三十万の人がこの労働記念日に参加して一大示威運動を展開するといふ。宮城前の広場には紅白の布で巻いたプラットフォームが出来て今日の大会を待ってゐる。それが去年の今日はメーデーの催がなかったのは勿論、メーデーと口にする事さへ憚[はばか]らねばならなかったのであるから驚く。何たる変化であらう。
五時から芦田君が数人の友人を目黒の官邸に招待してくれた。…彼は民主党総裁であり外務大臣であるが、今の内閣も第一生命同様、随分弱いもので、最もこれはGHQの軍政の下にあるので、誰でも如何する事も出来ないのだが、丁度平野農相の追放の問題が起った際なので内閣も相当ゴタゴタしてゐるらしかった。一方保守政党の団結による新党結成の問題もあり、芦田君も今では総理大臣を夢みてゐるかも知れない。
パスカルのポンセ―を読む。中々難解であるが、所々何物かを脳裡に遺[のこ]す。
この頃の電車やバスは、実際窒息しそうな混雑である。電力不足の為め車台の数を減らした為らしい。何としても非常な苦痛で全くなさけなくなる。しかしパスカルはその冥想録において「廃黜[はいちゅつ]された王でなくして誰が王でない事を不幸だと思ふであらうか。…又眼を一つだけ持ってゐるのを不幸だと思はぬ者があらうか。人は恐らく眼を三つ持たない事を敢て悲しみはすまい」と云っている。大正十二年の震災から自働[動]車に乗って二十五年、今年自働[動]車がなくなってこの交通地獄に逢ふのは果して不幸であらうか。
今日はクリスマスである。昨年はGHQにはイルミネーションやクリスマストリ―があったが、今年は何らそんな設備はなかった。日本の経済状態の現状に鑑み、連合軍でも遠慮したものと思はれる。
今日はラグビーインターハイのセミファイナルで、成蹊と成城が顔を合せさ[わせ]た。9対6で成蹊が敗れたと見に行った信雄が知らせた。スポーツは勝負に余り重を置いていけないと云って居乍[おりなが]ら敗けるのは淋しい。泰夫は成蹊のキャプテンをしてゐる。
ここ二、三日証券界は大暴騰をつゞけ、今日は遂に立会停止となった。インフレ時代とは云へ従来にない騰[あが]り方であった。あるものは一度に百円以上も高くなった。千円以上の株が二、三出て来た。平時三十五、六円であった発送電の株が百四、五十円にもなったといふ始末である。
今日は新憲法施行の一周年だといふので、全国休日となった。何だか日本国民の二十四時間ストライキの様な気がして、祝祭日といふ様な気持ちにはなれない。マックアーサーは日本国民に与ふといふ声明書を出した。翻訳のせいか新聞で見た所では、一寸[ちょっと]難解の様に思はれた。…この憲法が果して日本の不磨の大典となるか如何か私共は未だ確信を得ない。趣旨においてよいとしても、日本国民は外国から配給の憲法では何だか満足が出来ない様な気がする。
今日東芝の総会で、私は取締役に選任された。この話は本年七月始めからの事であった。その後半年に亘[わた]って色々曲折はあったが、結局今日の様になった。
この頃急に忙がしくなって仕舞[しま]った。全く手紙を書く閑さへない。…東芝では、如何ういふ訳か役員会を会社で開かず、交詢社とか日本クラブとか、工業倶楽部とか、鉄道協会とか、転々として変って歩いてゐるので、自分の席へ戻る閑がない。これは幹部が組合に押しかけられるのを廻避する為だと思ふが、少し馬鹿げてゐる様に思はれる。費用と時間の浪費で、社員は役員に会ふ事も出来ず、私でさへも誰が何処にゐるか判らない。
七月六日午後、ラヂオは国鉄総裁下山氏が今朝家を出たなり行衛[行方]不明だと放送したが、七日朝に至り、同氏の惨死体が東北線綾瀬駅附近の鉄道線路に発見されたと報じた。国鉄では両三日前より人員整理を発表し、組合との間に団交を開始してゐたが、元より妥協点に達せず。国鉄側は交渉を打切り整理を発表したのであったが、その結果遂にこの惨事を見るに至ったのである。
1886.6.3東京生まれ。1911.7東京帝国大学法科大学卒、1911.11高等文官試験合格、逓信省郵便貯金局勤務、1915.8逓信省退官、1915.9第一生命保険会社入社(秘書役)、1919.3第一生命保険会社支配人、1931日本経済連盟会会員委員会東京方面委員、1937.4~9日本経済連盟会派遣欧米経済使節団団員、1938.11第一生命保険会社取締役社長、1940.4日本経済連盟会理事、1948.12東京芝浦電気(株)取締役、1951.4日本ボーイスカウト日本連盟理事、1956.2(社)経済団体連合会会長、1957.11東京芝浦電気(株)会長、1958.3アラビア石油(株)会長、1960.12東京オリンピック資金財団会長、1963.9日本工業倶楽部理事長、1965.11日本万国博覧会協会会長。1975.3.6死去。
(リサーチ・ナビ「石坂泰三関係文書」より)