明治26(1893)年7月30日
自由万歳
選挙 詳しく
星氏出発の后で、龍野は懇親会場に臨み、山田氏の紹介にて我党方針の一班を演説し、喝采[かっさい]湧くが如く自由万歳を祝し散会せり。
星氏出発の后で、龍野は懇親会場に臨み、山田氏の紹介にて我党方針の一班を演説し、喝采[かっさい]湧くが如く自由万歳を祝し散会せり。
午前十一時石の巻を出て、桃生郡深谷村広淵[ものうぐんふかやむらこうえん]に抵[いた]り、広淵寺の公会に臨む。聴衆一千五百余、瀬戸、重野、龍野、板翁出演。非常の感動を与へ、午後八時半散会。
この夜、稲井村某氏の宅に開ける演説会に臨む。聴衆二百名斗[ばかり]、重野氏先づ立憲政体論を述べ、余は自由党の方針に就て三時半演説し、夜半散会せり。改進党の壮士両三名来り妨害を企つ。成らず。遂に逃げ去れり。
改進党の暴士数十名棍棒を振り、礫[つぶて]を抛[なげう]ち、余を要撃せんとす。余車上彼等を大喝し、短銃一丸を放てば、彼等皆四方に逃げ散れり。
水曜日。大浦子事務所より電話、一、鳥取の石谷はその友人より、鎌倉に来り相談すとの話なり。一、愛媛、熊本は直接の干係[関係]なし、下岡、安達と相談せん、両人とも目下奈良に出張中。
こはれた小橋に濁つた小川、無残(無産)の戦はどれもいや(本所)
濱口首相の声明に、小党派の人の当選少きは、民衆が大政党の分立する政党的覚醒が充分で、主義主張の不確実な小党派が認められざるに至れるなりとの事。…政党が団結して悪事を遂行する事甚しき間は、僕は人物本位なり。
午后から開票の結果がラヂオで放送され、新聞の張出しに人が集まってゐた。党本部に行ったが余り代議士は集まってゐない。夕方にラヂオで私の当選は確実だと放送した。夕食後鳩山一郎氏往訪。
選挙の結果自由党141、進歩党92、社会党91、無所属78と判明した。朝吉田外相を往訪した。俺は幣原に殉ずると談り、新内閣にはよき外相と蔵相とを捜すことだと云った。
五時から芦田君が数人の友人を目黒の官邸に招待してくれた。…彼は民主党総裁であり外務大臣であるが、今の内閣も第一生命同様、随分弱いもので、最もこれはGHQの軍政の下にあるので、誰でも如何する事も出来ないのだが、丁度平野農相の追放の問題が起った際なので内閣も相当ゴタゴタしてゐるらしかった。一方保守政党の団結による新党結成の問題もあり、芦田君も今では総理大臣を夢みてゐるかも知れない。