印刷関連機械
画像は、1862年第2回ロンドン万博で展示された、ホー型10方給紙輪転機である。ホー型機は1860、70年代に多くの新聞社で使用された。印刷機の発展は、活字鋳造、植字機、製紙技術等の発展ともあいまって、短時間における大量の印刷を可能にした。
手引き平圧機~円圧印刷機
近代印刷技術は、15世紀半ばのグーテンベルク(J. H. Gutenberg)による活版印刷の考案に端を発する(電子展示会「インキュナブラ-西洋印刷技術の黎明」)。時を経て1798年には、イギリスのスタンホープ(C. Stanhope)が、てこの原理を応用した総鉄製の手引き印刷機を開発し、ロンドンのタイムズ紙の印刷工場で最初に使用されて毎時片面250枚を印刷した。
19世紀に入ると、蒸気機関の応用、戦争による新聞需要の高まりとともに生産性の高い印刷機が現れる。また、この頃、平版印刷(石版印刷、リトグラフ)が考案され、これまでの銅版や木版に比べ描画が容易に再現できるようになり、多色刷りも開発される。ほぼ同時期の写真技術の開発、製紙技術の発展とともに、近代印刷の発展に大きく寄与することになる。
1812年にドイツのケーニヒ(F. Konig)とバウアー(A. Bauer)により、蒸気機関で稼動する円圧印刷機(版と紙を円筒でプレスするもの)が誕生し、その後タイムズ社の依頼を受けて改良を重ね、円筒を2つ用いて同時に2枚の片面刷りが可能となり、毎時1,100枚ほどを印刷できるようになった。
活字鋳造・植字
活字鋳造や植字の分野でも、蒸気機関の登場を背景に人力から機械化への動きが進む。1838年にアメリカ特許を取得したブルース(D. Bruce)による手回し式活字鋳造機は、2個のL字型の鋳型を合わせ、ポンプで地金を鋳型に流し込むものであったが、それまでの鋳型とひしゃくによる活字鋳造に比して格段に早く鋳造することが可能になった。また、活字鋳造や印刷機の改良とともに、活字を版面に組む植字作業の機械化も求められた。1820年代からチャーチやカステンバインらにより数々の植字機が開発されてきたが、画期的だったのは、アメリカのマーゲンターラー(O. Mergenthaler)が1886年に発明した、1行をまるごと活字にするライノタイプの登場である。タイプライターのキーボードを叩くように原稿通りにキーを打つと、機械が活字の母型を選び出し、1行分並べて活字の固まりを鋳造する。これまで3名で行っていた操作が1名で可能になり、作業効率が向上した。
輪転機による発展
新聞やその他の定期刊行物の発行部数が増大するにつれ、さらに高速の印刷機が求められるようになった。1846年には、アメリカのホー(R. M. Hoe)が輪転式印刷機を実用化する。活字の間に楔形の金属板を付けて円筒形の「版胴」に固定し、その周囲に4本の「圧胴」を取り付け、間に紙を通して連続印刷するもので、円圧印刷機と違って版をもとの場所に戻す必要がないため時間短縮になった。1857年にはタイムズ社から発注を受けて、圧胴10本、10人で紙を通すという巨大な機械が製作された。毎時2万枚もの印刷が可能だったという。
また、1851年ロンドン万博では、フォスター(J. Foster)が新聞用折りたたみ機を出品している。後世、折りたたみ機の改良が印刷の高速化、自動化を推し進める一つの重要な要素となった。
輪転圧式印刷機は、活字が円筒から落ちやすい欠点があったが、紙型の鋳型から鉛版を作る方法を使って、円筒そのものを版にすることができるようになった。1865年、バロック(W. Bullock)が連続巻取紙に印刷する世界初の輪転機を製作すると、これまでのように人が紙を挿す必要がなくなった。巻取紙を切断後に2本の版胴を通して両面が印刷され、排紙受けに排出される仕組みで、現在の輪転機と基本構造は同じである。
一方、イギリスでは、1862年の第2回ロンドン万博で輪転機のモデルに感銘を受けたタイムズ社の社長(J. Walter Ⅲ)の指示により、1866年、ウォルター輪転機が製作される。これは、巻取紙が送り出されて加湿装置を通過し、上部の版胴で表面、下部の版胴で裏面を印刷後に裁断され、振り分けられるという仕組みであった。一度に4ページを印刷、毎時12,000枚の両面刷りを可能とした。
1870年代は、各国の主要な印刷機製造会社が輪転機の製作を行う時代となっていく。アメリカのアール・ホー (R. Hoe) 社、ドイツのマシーネンファブリックアウグスブルグ (Maschinenfabrik Augusburg) 合資会社、ケーニッヒ・バウアー (Konig-Bauer) 社などが輪転機の製作に取り組んだ。フランスでは、1872年、日本に馴染みの深いマリノニ (Marinoni) 社が巻取式印刷機を製作している。従来のものに比べて構造が簡便で、高性能であることが特徴だった。1889年第4回パリ万博で新聞の高速印刷を実演し、1890年には、日本の内閣官報局で導入、第1回帝国議会議事速記録を官報付録として印刷した。また、東京朝日新聞社にも輸入された。
1880年になると、輪転機のさらなる高速化を目指して折りたたみ部分の開発が活性化していき、その後の輪転機や印刷機は、切断部や給紙部などの機構の改良を重ねて高速化していった。1893年には、アメリカのミーレ(R. Miehle)により1工程で圧動が左右に1回転ずつ計2回転する2回転式印刷機が発明された。従来型の1工程圧動1回転に比べて印刷能力が飛躍的に向上する。同年のシカゴ万博にミーレ社の製品が出品されている。1904年にルベール(I. W. Rubel)の発明によるオフセット印刷の手法(版からゴム布に転写してから印刷する)が確立されてからは、オフセット輪転機の時代へと変化していく。
- 参考文献:
『「近代印刷のあけぼの-スタンホープと産業革命」展図録』 凸版印刷印刷博物館 2006 <PE63-H14>
東京機械製作所輪転機製造開始100年委員会編 『輪転機のあゆみ : 輪転機製造100年記念誌』 東京機械製作所 2006 <PE63-H13>
凸版印刷株式会社印刷博物誌編纂委員会編 『印刷博物誌』 凸版印刷 2001 <PE23-G1>
日本印刷学会編 『印刷事典』 印刷朝陽会 2002 <PE2-G6>
馬渡力 『印刷発明物語』 日本印刷技術協会 1981 <PE61-E10>